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2020に伝えたい1964


東京への土台が出来上がってきた大会(2012年ロンドン大会)《2020に伝えたい1964【エクストラ・延長戦】》


2021/04/26/公開
記事:山田将治(READING LIFE公認ライター)

〔始めに〕
先達てお知らせさせて頂きましたが、東京オリンピック開催延期に伴い、本連載をエクストラ(延長戦の意)版として、1964年の東京オリンピック以降の各大会の想い出を綴っていくことになりました。どこかで、読者各位の記憶に在る大会に出会えることでしょう。どうぞ、お楽しみに!

 
 
オリンピック史上初、同一都市での開催三回目となった第30回近代オリンピック・ロンドン大会は、現地2012年7月27日に始まった。
 
今回は特に、注釈を先に記すことにする。
同一都市に於けるオリンピック三回目の開催は、正確にはロンドンが二都市目だ。それは、アテネ・ギリシャが、2004年の開催を三回目とする説が有るからだ。あくまで“説”としたのは、以下の通りだ。
 
現在は、毎閏(うるう)年に開催されることが決まっているオリンピックだが、その規定が正式に決まる以前の1906年に、アテネでオリンピック大会が開催された記録が残っている。
その大会とは、1904年のセントルイス大会と1908年のロンドン大会の中間年に『近代オリンピック10周年記念大会』として開かれたのだった。
そこには、オリンピックの開催は、世界各地で順に開かれるべきとする近代オリンピックの提唱者クーベルタン男爵(フランス)と、オリンピックは発祥の地であるアテネで恒久的に開催するべしとするギリシャのゲオルギオスⅠ世の、折衷案として開かれたものだった。
背景には、1900年のパリ大会と1904年のセントルイス大会が、万国博覧会の一環として開催されたオリンピック大会だったので、盛り上がりも注目も欠けていたことがある。
その為、オリンピックを衆知させようと、中間年に恒久的なアテネでオリンピックの開催が決定された訳だ。1906年のアテネ大会は、その初めての大会となったのだ。
 
中間大会といってもこの大会には、20か国900名余が参加した。13種目78競技が行われていたことから、当時としては立派なオリンピック大会であったことに異論は無い。
しかし、この中間年オリンピックは、その後のギリシャの政情不安や、提唱者のゲオルギオスⅠ世が暗殺されたことによって、たった1回の開催で立ち切れとなった。
そうして、1906年のアテネ大会は、オリンピックの公式記録から完全に抹消されたのだった。
 
情報を正確にするなら、このロンドン大会、開催は三回目でも招致決定は四回目だった。それは、オリンピックの歴史記録には、開催都市としてロンドンの名が四回出て来るからだ。
1908年、1944年、1948年、そしてこの2012年だ。
もうお解かりの様に、1944年の第13回近代オリンピック大会は、第二次世界大戦が終わらず、開催そのものが中止となった。その代替開催として、1948年の第14回大会は、無条件でロンドン開催が決まったのだ。
 
同じことが、2020年の開催が今年に伸びた東京にもいえる。
それは、東洋で初の近代オリンピック大会招致が決まっていたのは、1940年の第12回大会の東京なのだ。NHKの大河ドラマ『いだてん』にも描かれていた、日本に於ける“オリンピックの父”嘉納治五郎先生が、自らの命を懸けて招致した大会だ。
残念なことに第12回大会は戦争の為、開催権を返上することとなった。一般的な認識では、1940年オリンピック・東京大会は戦争により中止されたとされている。しかし、開催都市及び各国のオリンピック委員会には、大会を返上することは出来ても、中止することは出来ないのだ。
実際、第12回大会は、東京が開催を返上した後、開催地決定投票で2位だったヘルシンキ・フィンランドに開催地が変更されていた。その後、第二次世界大戦の激化により中止となったのだ。
従って、オリンピックの公式記録に第12回オリンピック大会は、第6回(ベルリン・ドイツ)大会、第13回大会と共に、中止されたことが明記されている。開催地及び大会そのものが、1906年大会の様に抹消されてはいない。
 
オリンピックを開催する・しないは、国際オリンピック委員会(IOC)のみが行使出来る権利だ。従って、新型肺炎ウィルス蔓延により、一年延期された今回の東京大会も、IOCが開催する意向を見せているのだから開かれると考えるのが妥当だ。
第12回大会を、戦争により返上した東京はその後、1964年の第18回大会を開催し、今年、第32回大会を開催しようとしている。
なので、東京はロンドンと、2024年に第33回大会の開催地に決まっているパリ・フランス、同じく2028年の第34回大会が決まっているロサンゼルス・アメリカと共に、夏季オリンピックを三回招致した稀有な都市として誇っても良いと思う。
 
このところ一部見識者の間では、東京でのオリンピックを2032年の第35回大会に回しては如何がとの意見が出ているらしい。しかしながら、第35回大会の開催地は、既にブリスベン・オーストラリアに決定している。
従って、2032年に東京大会が順延することは、出来ない相談となっているのだ。
 
前置きが長くなってしまった。
 
1992年のバルセロナ大会以来のヨーロッパ開催となったロンドン大会は、どこか、久々の帰郷感が漂っている大会だった。プロ選手の活躍が目立つ昨今の大会とは違って、古き良きアマチュア精神が残っている様だったからだ。
例えば、競技場内に流れるアナウンスが、正当クイーンズイングリッシュの発音とイントネーションだったことだ。メダル授与式に登場するプレゼンターも、ロンドンのセヴィル通り(背広の語源)で誂(あつら)えた様な服装だった。
英国選手団のユニフォームも、紺地に白のパイピング(縁取り)が入った伝統的デザインだった。
 
その上、表彰式のBGMに、1981年にアカデミー作品賞を受賞した英国映画『炎のランナー CHARIOTS OF FIRE』のテーマ曲が使われていた。
『炎のランナー』は、1924年にパリで開催された第8回大会で活躍した、二人の英国陸上選手を描いた作品だ。ヴァンゲリス作曲のテーマ曲も、アカデミー作曲賞を受賞しており、大変印象的だった。
アマチュアニズム全盛のオリンピックを描いた映画のテーマ曲が、連日流れたのだから、1924年当時のノスタルジックな雰囲気に為ったのかもしれない。
 
一方、競技施設は、近代的で前衛的な建築が目立った。特に、ファッションデザイナーのポール・スミスが監修した競技場は、流行の最先端を行くロンドンの面目躍如といった感じだった。
印象に残るのは、屋根が競技場全体をすっぽり覆う形で建てられた、メイン会場として新設されたロンドン・スタジアムだ。ロンドン大会では、陸上競技の他、開会式と閉会式が行われた。
新設のスタジアムを、それしか使わないのかとの意見が出そうだが、三回目のオリンピック開催となるロンドンでは、他にも多くの競技場が既に存在していたからだ。例えば、サッカーならウェンブリースタジアムが在り、テニスなら言わずもがなのウインブルドンが在るのだ。
悲しいかな、東京とは大違いだ。これはまさに、スポーツが文化として根付いている伝統国の力だと思い知らされた例だ。
 
因みに、新設されたロンドン・スタジアムは、その後幾度の改装が加えられ、2019年にはヨーロッパ初となる、メジャーリーグ・ベイスボール(MLB)の公式戦が行われた。日本人の田中将大投手が、ボールパークに生まれ変わったロンドン・スタジアムのマウンドに立った初の投手となったことは、我々の記憶に新しいところだ。
 
この、オリンピック・ロンドン大会。新しいスター選手の台頭は無かった。主要競技の陸上競技と競泳で活躍していたのは前回と同じく、ウサイン・ボルト選手(ジャマイカ)とマイケル・フェルプス選手(アメリカ)だった。
 
開催国の英国は、金メダル獲得数でアメリカ・中国に続く第三位に躍進した。
ただし、金メダル獲得競技は、ボート・ボクシング・自転車・馬術といった、日本になじみが薄い競技だったので、日本ではあまり知られてはいない。
しかし、地元開催を盛り上げる方法として、特化すべき競技を選定することが重要と、日本選手団は手本にしたいものだと感じられた。
 
日本選手団は、金メダル獲得数が7個と前回の北京大会より1個減らしたもののメダル葬獲得数では、金メダル16個を獲得した2004年アテネ大会の層メダル数37個を上回る38個(当時、史上最高)に上った。
これは、銀・銅メダルの獲得が多かったからで、将来への期待を抱かせる結果と為った。中には、今年の東京大会でも活躍が期待される、競泳の入江陵介選手や、萩野公介選手といった当時の若手の台頭が目立った。
 
日本選手団の銀・銅メダルの中には、金メダルを獲ることが出来なかった無念さより、むしろ賞賛されるものも目立った。
先ず、陸上競技・ハンマー投げで、2大会振りのメダル獲得となった室伏広治選手(現・スポーツ庁長官)の銅メダルが素晴らしかった。これは、メインスタジアムに挙がった唯一の日の丸だっただけでなく、8年もの間、室伏選手が競合犇(ひし)めくハンマー投げで、第一線を張り続けた証明でもあるからだ。
 
三宅宏実選手が獲得した、史上初の女子ウエイトリフティングでの銀メダル(48kg以下級)は素晴らしかった。何しろ、実父である三宅義行氏の銅メダル(1968年メキシコ大会)を超えたのだから。
これで『三宅』の姓は、日本に於いて完全に、重量挙げの代名詞となったのだ。
 
他には、アーチェリー・フェンシング・卓球・バドミントンといった、新しい競技でのメダル獲得も有った。それらの競技では、続くリオデジャネイロ大会でもメダルを獲得しており、否が応でも東京大会での活躍が期待されるところだ。
 
日本選手団の中で、反対に期待外れな競技も有った。
その代表格は、何といっても日本発祥競技の柔道だ。このロンドン大会で、日本柔道チームが獲得出来た金メダルは僅かに1個だけだった。“野獣”と綽名(あだな)された、女子57kg以下級優勝の松本薫(かおり)選手が獲得したんのだ。
女子では他に、最重量級の78kg超級で杉本美香選手が銀メダルを、63kg以下級でベテランの上野順恵選手が銅メダル獲得した。
男子に至っては、史上初の金メダル無しに終わった。銀・銅メダルをそれぞれ2個獲得したが、私が覚えているのは、試合後に呆然と会場を見詰める監督・篠原信一氏の姿だった。
もっとも、大会前の世界ランキングで、松本選手以外にトップが居なかったので、当然の結果ともいえる。しかし、見方を変えると、世界柔道の潮流に日本柔道が追い付けていなかった結果ともいえるのだ。
 
日本得意の野球・ソフトボールが行われなかった中で、球技で複数のメダルが獲得出来たことは意外だった。
また、ワールドカップで優勝していた女子サッカーの銀メダルは順当だった。
意外なところでは、球技で二日連続の日韓3位決定戦が行われた。
先ず、男子サッカーで日韓が激突した。この長年のライバル対決で、日本チームは0‐2で韓国に敗れた。
翌日に行われたのは、女子バレーボールの日韓3位決定戦だ。準々決勝で苦手の中国を退けた日本チームは勢いに乗り、3位決定戦では韓国をストレートで下した。
 
日本の御家芸である体操では、日本のエース内村航平選手が、遂に個人総合で見事に金メダルを獲得した。この種目の金メダルは、1984年ロサンゼルス大会の具志堅幸司選手以来の快挙だった。
しかし、二大会振りの金メダルを狙っていた団体総合ではミスが続発し、危うく下ダル無しに終わるところを、ギリギリのところで踏み止まっての銀メダル獲得となった。
団体総合の表彰式では、再び内村選手の悔しそうな表情が印象に残った。
 
金メダル獲得は無かったものの、競泳の日本チームの活躍は素晴らしかった。メダル獲得数は、日本史上最多の11個だった。これは、アメリカに次ぐ全体2位の成績だった。
松田丈志選手がインタビューに答えた、
「康介(北島)さんを手ぶらで帰す訳にはいかない」
が、新語流行語大賞に選ばれた、男子4X100mメドレーリレーは、初の銀メダルを獲得した。それも、各選手が個人競技時のタイムを上回る結果を出した賜物だった。
同時に女子も、初のメダルを同競技で獲得した。これは、個人競技が多い競泳種目が、チームで力を高めることの重要性を示したものだった。
また、日本の競泳陣が、確実に底上げされたことを示していた。
 
日本の伝統的御家芸のレスリングでも、日本選手は強かった。
男子フリースタイル66kg以下級では、米満達弘選手が、日本に二大会振りとなる金メダルをもたらした。フリースタイル55kg以下級では湯元進一選手が、グレコローマンスタイル60kg以下級では松本隆太郎選手が、ともに銅メダルを獲得した。
 
女子チームに目を移すと何といっても、55kg以下級の吉田沙保里選手と、63kg以下級の伊調馨(かおり)選手が、既定路線であるかのように金メダルを獲得し、共にオリンピック三連覇を果たした。
伊調・吉田の両選手には申し訳ないが、このロンドン大会レスリングで、私が最も感動したのは、48kg以下級で小原日登美選手が金メダルを獲得した時だった。
この階級、オリンピックに取り入れられてからの前二大会、伊調馨選手の姉・伊調千春選手が出場していた。結果は共に銀メダルだった。従って、日本にとって念願の金メダルであったのだ。
 
小原日登美選手は、伊調千春選手と同い歳でロンドン大会当時31歳だった。完全にベテラン選手の域だ。小原選手が、ここまで日の目を見ることが出来なかったのは、数々の綾が折り重なっていた。
先ず、彼女の本来の階級は51kg以下級だ。この階級は、世界選手権には有る階級なのだが、オリンピックでは当時採用されてはいなかった。
小原日登美選手は、同階級の実力者で2000年から2008年迄、世界選手を六連覇している。しかし、オリンピックには無い階級なので、彼女は55kg以下級でオリンピック出場を目指すことになった。
ところがだ、皆様も御存知の通り、55kg以下級には霊長類最強女子(吉田沙保里選手のこと)が立ちはだかっていた。彼女は、前回の北京大会予選で吉田選手に敗れ去った後、48kg以下級に転向する。
それと同時に、結婚していることを公表し、登録名を旧姓の“坂本”から“小原”へと変更した。
そして小原選手は、努力とキツイ減量に耐え世界選手権を連覇した。
迎えたこのオリンピック・ロンドン大会。小原日登美選手は、バッティングによって目を腫らしながらも、見事に念願の金メダルを獲得した。
夫で練習パートナーの小原康司氏の喜び方が、思い出される。実に、感動的だった。
 
数々の競技で、日本選手の活躍が目立ったオリンピック・ロンドン大会。
その後の選手育成方針が見えて来た大会であったと共に、日本選手団の基礎が出来上がりつつあることを証明した大会でもあった。
 
 
《以下、次号》
 
 

❏ライタープロフィール
山田将治(Shoji Thx Yamada)(READING LIFE公認ライター)

1959年生まれ 東京生まれ東京育ち
天狼院ライターズ倶楽部所属 READING LIFE公認ライター
5歳の時に前回の東京オリンピックを体験し、全ての記憶の始まりとなってしまった男。東京の外では全く生活をしたことがない。前回のオリンピックの影響が計り知れなく、開会式の21年後に結婚式を挙げてしまったほど。挙句の果ては、買い替えた車のナンバーをオリンピックプレートにし、かつ、10-10を指定番号にして取得。直近の引っ越しでは、当時のマラソンコースに近いという理由だけで調布市の甲州街道沿いに決めてしまった。

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2021-04-26 | Posted in 2020に伝えたい1964

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