東京の子供達が、一斉に外へ飛び出した《2020に伝えたい1964》
記事:山田THX将治(天狼院ライターズ倶楽部 READING LIFE公認ライター)
「世界中の青空を、ここ東京へ集めた様な上天気です」
NHKの北出アナウンサーが、こう表現した様に1964年10月10日(土曜日)、東京の空は雲一つ無い快晴だった。
今では知る人も少ないが、前日の10月9日、東京の天気は雨だった。当時、幼稚園の年長組だった私は、先生から
「明日、天気になる様に‘テルテル坊主’を作りましょう」
と即され、ピンポン玉を渡された。幼稚園生によって作られた、いくつものテルテル坊主が、教室の軒先に幾重にも並んだものだった。
翌10月10日が、第18回オリンピック東京大会の開会式の日であることは、5歳の幼稚園児でも知っていた。それほど、1964年当時の日本にとって、オリンピック開催は、それまでに体験したこともない大イベントだった。何しろ、開会式の入場行進を見る迄、一度にこれほど多くの外国人を見たことは無かったくらいだ。
雨の多い日本でも、せっかくの祭典なので、晴天で行われる方が良いに決まっている。昔から言い伝えられてきた『晴れの特異日』(統計上、雨が降らないとされた日)の中で、最も晴れの確率が高かった10月10日が、開会式に選ばれたのは当然のことだったろう。
ところが、前日の10月9日、東京はその時季にしては珍しい位の大雨だった。幼稚園児達が、オリンピック開会式の為に、テルテル坊主を作らされたのもうなずける。
私はというと、幼稚園から帰った後も、外の天気が気になって仕方がなかった。雨は夜になっても止む気配を見せず、テレビの天気予報は、
「今夜から明日の東京地方の天気をお伝えします。現在、降っている雨は夜半過ぎには上がります。明日は、晴れ間が広がるでしょう」
と伝えていたが、子供には理解しがたく、5歳だった私は夜遅くまで空から落ちてくる雨を眺めていた。子供心に、初めて体験する祭典を何としても上天気で観たいとの思いからだった。親からは
「いくら見てても雨は止まないから、早く寝なさい!」
と叱られた。それでも心配だったが、睡魔には勝てずいつしか寝てしまった。子供のことだ。
次の日、後にオリンピックの開会式を記念して『体育の日』を休日に制定される10月10日は、真っ藍な青空だった。
私はというと、喜び勇んで飛び出した。幼稚園へ行くためだ。その時代は、会社は勿論、学校も幼稚園も土曜日は休みではなかった。午前中だけでも、学校や幼稚園へ行く必要が有った。
幼稚園の朝礼で、園長先生は
「お早うございます。今日は待ちに待った東京オリンピックの開会式ですよ。幼稚園が終わったら、寄り道せずに帰るんですよ」
と幼い私達に言い付けた。時代が出ていたのはその続きで、
「もし、お家にテレビが無いお友達は、“お母さんを連れて”幼稚園へ戻ってらっしゃい。先生と一緒にテレビで開会式を観ましょう」
と言ってくれたものだった。私が通っていた幼稚園には、当時としては大変珍しい大型のカラーテレビが、ホールに備え付けられていた。
幼稚園もそこそこに、私は家へ飛んで帰った。午後2時に始まるオリンピック開会式を今や遅しと待ち構えるためだ。2時間近く前なのに、テレビの前に陣取り興奮している息子を見て、母親はただ呆れて見ていた。
1964(昭和39)年10月10日午後1時、NHKはオリンピック開会式の中継を始めた。私はその頃すっかり、前日雨が心配だったことをコロッと忘れてしまっていた。胸の高鳴りのまま、開会式が始まるのはいつかいつかという気分だったと、半世紀以上経った現在でも昨日のことのように覚えている。
テレビには、すっかり準備が整った国立競技場や、そのスタンド下で待ち構える各国選手団が映し出されていた。これほどの外国人が、初めて東京の一か所に集まった光景だ。
開会式が始まるまで、前回のローマ大会を始めとして、これまでのオリンピックで日本人選手が活躍した映像が流れた。映像といっても、現代の様にスムーズな流れではなく、どこかぎこちなかったことが子供にもわかったぐらいだ。第一、映像は全てモノクロ映像だった。
そう、カラー映像での中継と宇宙衛星を使った世界同時配信は、この東京大会から始まったことだったのだ。
本当に、真っ藍に晴れ渡ってよかった。
午後2時、古関裕而作曲の勇壮な『東京オリンピック・マーチ』にのせて、世界各国選手団の入場行進が始まった。
「選手団の先頭は、オリンピック発祥の地ギリシャであります」
北出アナウンサーから交代したNHKの鈴木文弥アナウンサーの紹介で、次々と各国選手団が入場した。アメリカなどの大選手団の国、アフリカのこれまでに見たこともない黒人選手、まさに‘雲を突く様な’大柄なヨーロッパの国々の旗手。そのどれもが、子供心になんとも晴れ晴れしい感覚を覚えた。
入場行進が完了し、聖火が点灯され、選手宣誓が行われた。
その後しばらくの静寂があり、テレビカメラが真っ藍な空を映し出した。
突然、どこから現れたのだろう、航空自衛隊の“ブルー・インパルス隊”5機が、大空に飛行機雲を敷きながら輪を描くように旋回し始めた。その輪は見る見る内に、青・黄・黒・緑・赤に変わり始めた。オリンピック旗の色だ。
そう、自衛隊機は真っ藍な大空に見事なオリンピック・シンボルを描き出したのだ。
「ここからも見えるかもしれない」
そう叫んだ私は、裸足で家を飛び出した。東京下町の狭い路地裏の小さな空にも、飛行機雲のオリンピック旗が見えた。
「あ! 見えた、見えた!!」
気が付くと、近所の子供達が、一か所に集まり空を眺めていた。
みんなみんな笑顔だった。
こんな記憶が、僕等の出発点となった瞬間だった。
❏ライタープロフィール:山田 将治 (Shoji Thx Yamada)
1959年生まれ 東京生まれ東京育ち
天狼院ライターズ倶楽部所属 READING LIFE公認ライター
5歳の時に前回の東京オリンピックを体験し、全ての記憶の始まりとなってしまった男。東京の外では全く生活をしたことがない。前回のオリンピックの影響が計り知れなく、開会式の21年後に結婚式を挙げてしまったほど。挙句の果ては、買い替えた車のナンバーをオリンピックプレートにし、かつ、10-10を指定番号にして取得。直近の引っ越しでは、マラソンコースに近いという理由だけで調布市の甲州街道沿いに決めてしまった。
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