2020に伝えたい1964

それは、破壊から始まった。丹下健三氏が描いた今日の東京《2020に伝えたい1964》


記事:山田THX将治(天狼院ライターズ倶楽部 READING LIFE公認ライター)
 
 
市川崑監督の映画『東京オリンピック』は、大きな鉄球が古いビルを壊すシーンで始まる。
私が生まれた、昭和中期の東京は、まだ木造住宅が多く、むしろ鉄筋コンクリートやレンガ・石造りの古いビルは少なかった。何故なら、東京オリンピックの42年前に『関東大震災』、19年前に『東京大空襲』という2度の被災で、東京の街のほとんどは灰燼に帰していたはずだったからだ。
それでも、2度の壊滅を何とか逃れたいくつかの建物は有った。その老朽化した建物や戦後に急増された建物が、東京オリンピックを機に生まれ変わっていったのだ。
 
今では信じられないことだが昭和30年代当時、私が生まれた東京の下町には数多くの運河が有り、そこに浮かべられた船で生活している‘船上生活者’が数多く居た。
そんな船上生活を送る人々に、突如‘退去命令’が出た。何故なら、中央区から江東区に掛けての運河に、自動車専用高速道路が敷設されることになったからだ。私が通っていた幼稚園の中でも、数人の園児がお別れしていったことを記憶している。
これも、東京の生まれ変わりを象徴する当時の記憶なのかもしれない。
 
昭和の中期、既に東京タワーは建っていたが、その他には今日の様に高い建物は全く無かった。それと同時に、空は今では説明しようが無いくらい広かった。
今になって思えば、当時の建築基準で日本のビルディングは10階までしか建てることが出来なかったのだ。もうほとんど建て替えられてしまったが、丸の内の中通りに面した古いビルの高さが精一杯だったのだ。
言い換えれば、現代の東京都心はNYのマンハッタンに近い感じ、一方、当時の東京は同じNYでも、クイーンズに近い感じと思って頂けるといい。
オリンピック当時の私は、まだ子供だったので、たまにしか行けなかったが、銀座や丸の内に続々と当時の最先端なビルが一斉に建ち始めて、ワクワクした思い出がある。工事風景を見て、なんだか凄い事が起こっていて、これで東京もNYやロンドンみたいに最先端の街になると、子供にも分かったものだった。その当時では、わずか10階の建物でも、すごく高いビルと感じられていたのに。
時代はまさに、『重厚長大』が命題の様に崇められていた時代だった。
 
世田谷区奥沢に在った親戚宅へ向かった際、途中の渋谷周辺で何かとてつもなく大きな建造物に出くわした。私は思わず、
「ここに橋が出来るの?」
と尋ねた。何故なら、日本の高い柱が二本、ちょうど橋脚ぐらいの幅で立てられていたからだ。すぐ隣には、少し低かったがもう一本、大きな柱が立っていた。
次に同じところを通り掛かった際には、曲線で造られテントみたいな、子供には何とも形容出来ない、それでいてかなり格好いいコンクリートの建物を覚えている。それが、建築中の代々木体育館だった。
大人になってから得た知識では、これは『吊り橋工法』という建築法だ。広い空間の為の屋根を、中央部に柱を立てずに支える唯一の工法だったのだ。それにより、現在でもライブ会場として代々木体育館が重宝されていることでも分かる通り、残響感を意識した素晴らしい会場となったのだ。オリンピックで訪れた諸外国の人々が、斬新な工法によって建てられたこの会場を、絶賛したのも納得出来よう。
横に立てられていた少し低い一本の柱は、第二体育館用のものだった。こちらはまさに、鉄筋コンクリートで出来たテントそのものだったのだ。
 
一方、駒沢辺りまで行くと、今度は大きな陸上競技場らしき物が作られていた。広場の真ん中には、今でも残っている『聖火台』が、既に完成していた。
「今度のオリンピックの会場だぞ」
父親は、自分で建てた訳でもないのにどこか自慢げに、後部座席から外を見ている私に説明してくれた。
後に知ったことだが、どちらの設計も建築家・丹下健三氏に手によるものだ。
半世紀を経た現代でも、全く色あせない見事なデザインで、丹下氏はこれまでとは違う競技場を計画した。また、オリンピック関連のグローバルデザインも担当されていたことから、東京という都市を、破壊の中から再度作り上げたと言っても過言では無かろう。そして、丹下氏の先見性は、今見ても十分理解出来る。東京タワーと並び、半世紀以上も東京を代表するそれらの残された建築物がそれを証明している。
そんな、新しく作り始められた東京を、その初期の頃から見ることが出来た私たちは、なんとも幸せな世代だ。
 
一新される国立競技場は、丹下健三氏を崇拝している隈研吾氏が設計している。観客席の屋根もほぼ出来上がり、完成形がほぼ見えてきた。今の内に、子供たちを見に連れて行ったもらいたいものだ。今後半世紀以上、このまま残っているはずだし、そうすれば多分、半世紀後に私と同じような思い出を持つ、沢山の子供達となることだろうから。
そして、2020年の次のオリンピックが日本で、それも東京で開催されたとしたならば、どんな姿に東京は成るのだろうと想像してみるのも楽しい限りだ。
 
 

❏ライタープロフィール:山田 将治 (Shoji Thx Yamada)
1959年生まれ 東京生まれ東京育ち
天狼院ライターズ倶楽部所属 READING LIFE公認ライター
5歳の時に前回の東京オリンピックを体験し、全ての記憶の始まりとなってしまった男。東京の外では全く生活をしたことがない。前回のオリンピックの影響が計り知れなく、開会式の21年後に結婚式を挙げてしまったほど。挙句の果ては、買い替えた車のナンバーをオリンピックプレートにし、かつ、『10-10』を指定番号にして取得。直近の引っ越しでは、当時のマラソンコースに近いという理由だけで調布市の甲州街道沿いに決めてしまった。

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2019-04-08 | Posted in 2020に伝えたい1964

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