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2020に伝えたい1964

金メダル第一号の会場は意外な場所だった《2020に伝えたい1964》


記事:山田将治(READING LIFE公認ライター)
 
 

「宏実ちゃん、銀メダルおめでとう! これでお父さんを越えましたね。次は、伯父さんに並んで下さい」
 
2012年、ある日の早朝、私がメールで咄嗟に出した投稿が、NHKのオリンピック特番で紹介された。宏実ちゃんとは、オリンピック・ロンドン大会の女子ウエイトリフティング(重量挙げ)で銀メダルに輝いた、三宅宏実選手のことだ。
当然、お父さんとは、宏実選手のコーチも務める三宅義行氏のことである。義行氏は、オリンピック・メキシコ大会(1968年)ウエイトリフティングで銅メダルを獲得しているので、宏実選手は、ロンドンの銀メダルで、実父を越えたことになった。
そして伯父さんとは、オリンピック・東京大会(1964年)のウエイトリフティングで連続して金メダルを獲得した三宅義信選手。1968年のメキシコ大会でも金メダルを獲得している伝説の選手だ。
これで、日本において、『三宅』の姓が重量挙げの代名詞となっているのも納得がいくところだ。
 
東京大会当時の日本オリンピック選手団は、自国開催ということもあって、国を挙げての協力体制で強化されつつあった。しかし、現代の様な科学的トレーニングや、近代的な訓練施設は無かった。
現に、三宅義信選手を始め多くの選手が自衛隊の隊員で、自衛隊体育学校というところで練習していた。当時はまだ、オリンピックには厳格なアマチュア規定があり、スポーツで収入を得る選手の出場が叶わない時代だった。その上、現在にも残る実業団チームも、企業規模がまだ小さかった時代なので、その予算は微々たるものだった。選手はというと、シフトの優遇や短時間労働は認めてもらっていたが、競技のトレーニングだけで雇用されることは無く、時間限定でも業務をしなければならない時代だった。
もっとも、そうでなければ厳格なアマチュア規定に抵触してしまうのだった。
 
宮城県出身の三宅義信選手は、元々、柔道をしていた。高校在学中の1956年、オリンピック・メルボルン大会の報道映像でウエイトリフティングという競技を知る。見様見真似で、自己流のトレーニングを開始した。柔道で不利な、小柄(158cm)な体格を克服するのに、有効だと思ったからだそうだ。
トレーニングが自己流だっただけでなく、当時の宮城県では練習用具すら満足に揃っては居なかった。三宅義信選手は、自宅にあったトロッコの車軸をバーベル代わりに挙げて練習したそうだ。そしてなんと、我流のウエイトリフティングの練習を始めてわずか半年で、インターハイの入賞を果たすこととなった。
三宅選手は、ウエイトリフティング選手としての素質を見込まれ、名門の法政大学へ進学する。大学3年の時に出場した、オリンピック・ローマ大会バンタム級(56kg以下)で銀メダルを獲得する。競技を始めて、4年足らずの快挙だった。
当然の様に、地元・東京大会への期待が膨らんだ。
 
オリンピックはどの大会でも、開催国には重要な大会となる。出来ることなら、数多くのメダル、それも金メダルを獲得しようと躍起になる。これも人情だ。
また、スポーツにはモメンタムが存在する。一度動き出したら、止め様が無い勢いのことだ。オリンピック開催国は、そのモメンタムを得ようとして、自国の金メダル有力候補競技を、開催日程の前半にもって来るものだ。
1964年の東京大会の時もそうだった。そして、そのモメンタム傭員とされたのが、三宅義信選手だった。
理由としては、東京大会の日本選手団で金メダル有力候補と思われる選手が、残念なことに主力競技の陸上・水泳には見当たらなかったのだ。現代だと、柔道がオリンピックの前半に行われることが多い。また、レスリングの場合も多い。
しかし、柔道がオリンピックの正式競技となったのは、東京大会からで、しかも当時は、男子のみの4階級しかなかった。すぐに終わってしまう、柔道を前半にもって来るプログラムは難しかった。
また、レスリングも、当時は男子のみが開催されており、その上、日本選手が苦手とするグレコローマンスタイルが先に行われると、相場が決まっていた。グレコローマンスタイルとは、下半身(脚)を攻守に使ってよいフリースタイルとは違い、上半身のみしか攻守に使うことが許されている競技だ。当然、腕力に長けた欧米選手が有利な競技だ。霊長類最強と言われ、オリンピックで3連覇したロシアのカレリン選手が有名だ。
また、大相撲で活躍している栃ノ心関や、大関まで登り詰めた琴欧州親方が、グレコローマンスタイル出身で、その腕(かいな)力を見ると理解し易いことだろう。
実際は、レスリングのグレコローマンスタイルでも日本は、複数の金メダルを獲得したが、これは、三宅選手のモメンタムによるものと言えることだろう。あくまで想定外だった。
 
ローマ大会のバンタム級から、フェザー級(56~60㎏)へと一階級上げていた三宅義信選手は、東京大会を回顧して、
「ローマ大会の金メダリストが、引退した後だったので本当はバンタム級のまま出場したかった」
と語っている。階級がある競技では、わずか1階級であってもその力差が、大きく隔たることがあるからだ。しかし、三宅選手は、
「私はその時(東京大会)25歳で、重量挙げの選手としては、全盛期の入り口に立った時期でした。ローマの時は、まだ若過ぎた(21歳)のです」
と、階級変更について語っている。例え階級を上げても、活躍する自信が有ったそうだ。さらに、
「しかも私は、本格的に重量挙げを始めて、まだ3年しか経っていない。これから益々強くなる自信もあった」
と語っている。実際、29歳で迎えたメキシコ大会では連覇を果たした。それだけではない。全盛期を過ぎた33歳で迎えたミュンヘン大会(西ドイツ)でも、4位に入っており、4大会連続入賞という快挙を成し遂げている。現代ならさしずめ『国民栄誉賞』の対象となっていたことだろう。
 
東京大会当時、ウエイトリフティングは3種類の試技が有った。
バーベルを肩の位置で一旦止め、足の反動を付けず(足を動かさず)頭上に押し上げる“プレス”。
一気に頭上へ突き上げ、足の反動を使って立ち上がる“スナッチ”。
肩の位置で止めたバーベルを、足の反動を付けて差し上げる“クリーン&ジャーク”の3種類だ。
現代では、足の動きが判定し辛い“プレス”は行われていない。
“プレス”と“スナッチ”は、“クリーン&ジャーク”に比べて3割程、挙げることが出来る重量が少なくなる。
 
東京大会当時5歳だった私は、勿論初めてウエイトリフティングを見たにもかかわらず、3種類の試技の動きを覚えてしまっていた。三宅選手のお蔭だ。
一時は、箒(ほうき)や竿など、長めの棒を目にすると、
「クリーン&ジャーク!」
とか叫びながら、ウエイトリフティングの真似をしながら遊んでいたものだった。
 
3種類の試技で、何を得意とするかは選手それぞれによって違う。ただし、レスリングでも触れたが、欧米選手に比べて腕力が劣る日本人選手は、下半身の力を使い易い“クリーン&ジャーク”を得意としていた。三宅義信選手は、その特徴が顕著で、三種合計での世界新記録の前に、“クリーン&ジャーク”の世界記録を出していた。
 
オリンピック・東京大会のプログラムが決まった。
金メダルを獲得し、日本選手団にモメンタムを持ち込む期待を背負って、三宅義信選手が出場するウエイトリフティング・フェザー級は、競技2日目の10月12日に組まれた。当時を振り返って、三宅選手は、
「(プレッシャーは無かったのかの質問に)そりゃー、相当感じたさ。でも、自信もそれ相応に有ったよ」
と語っている。
階級を上げたことに関しては、
「“プレス”“スナッチ”は、やや苦しかったねぇ。でも、体重を上げパワーを増したことによって、“クリーン&ジャーク”の記録が思ったより伸びたんだ」
と語っている。さらに、
「僕は、性格が楽天的なので、短所を改善するよりも長所を伸ばす方が向いているんだ。だから、得意の“クリーン&ジャーク”の為に下半身を強化しようと、走り込みを増やしたんだ」
三宅選手は連日、今の代々木公園周辺をランニングしていたそうです。陸上選手以外のランニングが、一般的でなかった時代だったので、苦しいトレーニングの連続でした。
「期待が徐々に、重圧になって来た。何で俺一人こんな苦しい練習しているんだろう。それが日本の為とは知りつつ」
そんなことを考えながら三宅選手は、練習に勤しんでいました。
ある日、完成した代々木屋内競技場(丹下健三氏が設計)周辺をランニングしていた三宅選手は、競技場の向かいで何かの建物を作ろうと突貫工事が行われている光景を目にしました。随行していたコーチが、
「三宅。あれがウエイトリフティングの会場だぞ」
と教えられました。オリンピックに向かって、必死になっているのが自分だけではないと、勇気付けられたそうです。
 
コーチから教えられたウエイトリフティング会場は、オリンピックで使用(といってもわずか7日間)された後、公会堂として使用された。一部は渋谷区役所としても使われた。
そう、オリンピック東京大会のウエイトリフティング会場は、その後『渋谷公会堂』に生まれ変わったのだった。総重量で何tもの重圧に耐えた舞台は、数々のアーティストが、憧れるライブ会場として生まれ変わったのだ。
現在は、耐震の為建て替え工事中だが、以前の渋谷公会堂、特に二階席に上がったことがある方は、オリンピック東京大会のレリーフを目にされたことがあるかもしれない。
二階席へ上がる左側階段の踊り場の壁面に、ウエイトリフティング各階級の優勝者と国名が残された、金属製のレリーフが設置されていた。私は渋谷公会堂を訪れた際は必ず、このレリーフを観て1964年を思い出し、一人感慨にふけっていたものだった。
そのレリーフは現在、白根記念渋谷区郷土博物館・文学館という渋谷区の施設で展示されている。建て替え中の新・渋谷公会堂には設置される予定はないが、今年(2019)の秋に開催される、東京オリンピックの55周年を記念する展示会には、出品されるそうである(以上、渋谷区文化振興課に確認済み)。
 
1964年10月12日(月曜日)。渋谷公会堂の舞台に立った三宅義信選手は、日本中の期待通り、世界新記録の重量を持ち上げ、日本の金メダル第一号となった。
三宅選手が引き込んだモメンタムで、日本選手団は、過去最高の16個もの金メダルを獲得した。
この最大の功労者は、勿論、三宅選手だ。
金メダルを首に掛けたまま、顔の斜め前に差し出した、三宅選手独特のポーズを、次に続いた選手達が全員真似をした。
 
日本において、『三宅』の姓がウエイトリフティングの代名詞に定着する、第一歩となった瞬間でもあった。

 
 
 
 

❏ライタープロフィール
山田将治( 山田 将治 (Shoji Thx Yamada))
1959年生まれ 東京生まれ東京育ち
天狼院ライターズ倶楽部所属 READING LIFE公認ライター
5歳の時に前回の東京オリンピックを体験し、全ての記憶の始まりとなってしまった男。東京の外では全く生活をしたことがない。前回のオリンピックの影響が計り知れなく、開会式の21年後に結婚式を挙げてしまったほど。挙句の果ては、買い替えた車のナンバーをオリンピックプレートにし、かつ、10-10を指定番号にして取得。直近の引っ越しでは、当時のマラソンコースに近いという理由だけで調布市の甲州街道沿いに決めてしまった。

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2019-05-27 | Posted in 2020に伝えたい1964

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