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2020に伝えたい1964

不確かな記憶でも、要点は残っていた《2020に伝えたい1964》


記事:山田将治(READING LIFE公認ライター)
 
 

「1964年の東京オリンピックで、ホッケーの決勝戦を観た」
この連載企画を考え付いた時、真っ先に対象読者として思い付いたS君に、私は嘘を言ってしまっていた。嘘という言葉を使うと少々きつい。正確には、あやふやな記憶を基に、つい口に出た言葉だった。
私から見ると、末の息子といっても若過ぎるS君は現在、オーストラリアに留学中だ。ホッケーが盛んな岐阜県の青年で、自身もホッケープレイヤーだ。しかも、ホッケーの盛んな岐阜県の代表選手なので、
かなりの腕前らしい。
それを知って、つい口走った前回のオリンピック東京大会の『ホッケー決勝戦観戦』は、この記事を書く為にもう一度確認したところ、まんざら“大嘘”では無く、“勘違い”の部類に入るものだった。
5歳の時の記憶なので、勘弁してもらうことにしよう。
 
そろそろ、2020年オリンピック東京大会の観戦チケット当選の通知が届く頃だ。ネット販売というものは、大変便利なものだ。自宅で待っていても、チケットが届くからだ。
ところで、ネット等は、SFの世界でしか無かった1964年、オリンピックの観戦チケットは、どうやって販売されたのだろう。今となっては、調べ様が無いが、多分、当日に各競技場のビューローで入手していたのだと思う。
今回のオリンピック(2020年東京)は、各競技かなりの観客の入りが予想される。販売予約のサイトに、なかなか繋がらなかったのだから、間違いないことだろう。
では、1964年はどうだったか。実は、超満員だったのは、開会式とバレーボールの決勝位で、あとはガラガラだった。その時代、観客で満席になったのは、大相撲の本場所か、プロ野球の巨人戦のナイター位だった。他に満員になっていたのはせいぜい、東京六大学野球の早慶戦か、日曜日の映画館位だったと記憶している。
1964年のオリンピックの記録映像を見ると、ガラガラの観客席か妙に黒い服を着た一団が写っている。やはり、あまり観客は入っていなかった様だ。黒い服の一団はというと、どうやら“動員”された中学生や高校生だった様だ。当時の中高生、時には大学生ですら学生服で外出するのが当たり前だったので、黒い服の一団となって映像に残っているのだ。
実際、北野武(ビートたけし)氏が、都立高校の生徒だった(当時)ので、
「遠い駒沢まで連れて行かれて、観たくも無い競技を観せられた」
と、ギャグで嘆いていたのを聞いたことがある。
 
まだ5歳でしかなかった私は、それでもオリンピックを生で観戦している。これは、間違いない。駒沢の競技場だ。しかも、観戦したのは、ホッケーだった。
S君には申し訳ないが、当時も今も日本においてホッケーはマイナー競技だ。英国圏では伝統のある競技なので、実際にプレーしたり真剣に観戦すれば、面白いに決まっている。ただ、注目されていなかっただけだ。注目度が低ければ、例えそれがオリンピックだったとしても、観客が集まる訳は無い。私が、観客席に着いた時も、周りにはほとんど人が居なかった。予選が無く“開催国枠”で出場するホッケー等、誰も興味を持てなくとも仕方が無いことだったろう。
 
今回、オリンピックでの日本ホッケー界のことを調べていて、驚くべきことを私は知った。日本において、マイナー競技であるホッケーで、一度だけだが銀メダルを獲得しているのだ!
1932年のロスアンゼルス大会でのことだ。驚いたことに、この大会のホッケー競技には、日本の他、開催国のアメリカとインドしか出場が無かった。
しかし、体格に勝る開催国のアメリカを破っての銀メダルは、たいそう価値のあることだと言わざるを得ない。しかも、団体競技としてバレーボールやサッカー、そして野球やソフトボールよりも早くメダルを獲得したことは、現在に続く日本の団体競技ならではの強さの礎(いしずえ)となったのかもしれない。
 
何故、まだ幼い私がその席に着いて居たのかには幾つかの訳がある。先ず、当然ながら一人で電車やバスを使い、入場券を買って観戦出来る訳が無い。
一つ一つ記憶を辿ってみると、幼稚園の園長先生に連れて行ってもらったことを思い出した。連れて行ってもらえたのは私だけでは無い。10名ほどの園児と先生が二人、そして園長先生が、園長先生の御長男が運転する通園用のマイクロバスで出掛けたのだった。
そういえば、オリンピック直前、10名弱の園児にだけ、手紙が渡されていた。
「帰ったら必ず、お母さんに読んでもらうのですよ」
そう、言いつけられた。
帰宅した私は、母親から、
「園長先生が、オリンピックのチケットをもらったので、連れて行ってくれるって」
と、私に告げてきた。封筒に『献金』と書いてお金を入れ、私の通園カバンに入れてくれた。お金は確か500円(当時は札です)だった。
今回、今年85歳になる母にこの時の事を確認してみた。母の話によると、園長先生が、どこからか入手したチケットがあったそうだ。ところが、園児全員分は無く、年長組の中で3年間通っていた園児だけを選抜したらしい。このことは間違いないらしく、連れて行ってもらえなかった園児の母親から、十数年たって恨み言を言われたそうだ。その上、キリスト教系の幼稚園だった為、献金という形で親が入場料を払える園児に限られらしいのだ。
とにかく、私は駒沢でホッケーを見る機会に恵まれたのだった。ただ、母に確認したところ、私が観戦出来たのは決勝戦ではなく、予選リーグの『日本対パキスタン』戦だったらしい。
 
では、何故私が、決勝戦を観戦したと記憶違いしていたのか。
私の記憶では、一方の選手が『ターバン』を巻いた姿でプレーしていたことを覚えていた。ターバンを見るのも初めてだったので、特に印象的だったのだ。
ところが、今回調べたところによると、ターバンを巻く習慣が有るのはシーク教徒なのだそうだ。シーク教徒のほとんどは、インドの方だ。そうなると、私の記憶通りターバンを巻いた選手を見たとすれば、インド戦を見たことになる。ところが、私が観戦したのは予選リーグの日本戦で、インドは日本とは反対のBグループだった。そもそも日本戦でなければ、動員等掛からず、私は観に行くことが出来なかっただろう。
 
もう一度、半世紀以上前の記憶をたどってみた。
確実なのは、ホッケーの日本戦を生観戦したことと、ターバンを巻いた選手を見たことだ。日本は決勝トーナメントに残ることが出来なかったので、二つの接点は無い。
 
途方にくれながら、この連載記事を最初から読み返してみた。
一つ思い出したことが有った。それは、私が通っていた幼稚園には、当時ではまだ珍しい、大型カラーテレビが有った。先生達は、園長先生を先頭にして、僕達園児を、さかんにオリンピックの中継が流れるテレビの前に座らせた。
そうだった。ホッケーの決勝戦『インド対パキスタン』は、幼稚園のテレビで園長先生と観たのだった。予選で観たパキスタンの選手を応援しようとしてだった。5歳児の頭の中では、いつしか日本とパキスタンが入れ替わり、日本が決勝戦をインドと闘っていると勘違いして記憶させたのだろう。
そうなると、最初の私の記憶、『駒沢で日本対インドのホッケー決勝戦を生で観戦した』のつじつまが合ってくることになる。
 
そんな訳なんだ。
S君、今回だけは勘弁してくれ。
 
 
 
 

❏ライタープロフィール
山田将治( 山田 将治 (Shoji Thx Yamada))
1959年生まれ 東京生まれ東京育ち
天狼院ライターズ倶楽部所属 READING LIFE公認ライター
5歳の時に前回の東京オリンピックを体験し、全ての記憶の始まりとなってしまった男。東京の外では全く生活をしたことがない。前回のオリンピックの影響が計り知れなく、開会式の21年後に結婚式を挙げてしまったほど。挙句の果ては、買い替えた車のナンバーをオリンピックプレートにし、かつ、10-10を指定番号にして取得。直近の引っ越しでは、当時のマラソンコースに近いという理由だけで調布市の甲州街道沿いに決めてしまった。

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2019-06-24 | Posted in 2020に伝えたい1964

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