2020に伝えたい1964

ドイツの金メダルには国歌が流れなかった《2020に伝えたい1964》


記事:山田将治(READING LIFE公認ライター)
 
 

「“東”とか付く国は、オリンピックに参加しないそうだ」
それが、1964(昭和39)年当時、5歳だった私の認識だ。どうやら、戦争の泥沼にはまりつつあった当時のベトナム報道を見て、そんな勝手な結論を出していたようだ。
1964(昭和39)年当時、冷戦の真っ只中だった。ベルリンの壁構築(1961年)、キューバ危機(62年)、ジョン・F・ケネディ米大統領暗殺(63年)と、毎年の様に事件が起きていた。そんな時代だったので、子供心にも不穏な空気を察知出来たのだとも思う。
若い方は御存知無いかと思うが、ドイツ・ベトナムといった第二次世界大戦の結果、分断された国家が存在していた。中には中国の様に、内戦から分断している国家もあるし、朝鮮だってある。
 
ただ、何故、私が、冒頭の様なことを考えたのか。今思い返すと、
「東京オリンピックに、ドイツは東西統一チームで参加」
の報を、子供なりに解釈した結果だと思う。正解からそう遠くはなかったのだ。
そういえば、開会式の入場行進で、ドイツチームを先導する国旗に、オリンピックのシンボルマックである“五輪”が付いていることに、疑問というか違和感を感じていたのは事実だ。
当時の記録・記事を確認すると、次の様なことが解ってきた。
 
当コラムの前号でも触れたが、話を1962年に戻すことにする。
その年、インドネシアのジャカルタで、アジア競技大会が開かようとしていた。ご存知の通り、当地インドネシアは戦前のオランダ領で、戦中に日本が占領したことを切っ掛けに独立を果たしていた。どちらかというと、親日国である。国の宗教は、イスラム教だ。そこで本来は、アジア大会に参加資格があったイスラエルを招待しなかった。そこまでなら、まだ、話がこじれることはなかった。何故なら、イスラエルだって、好き好んでイスラム国家へ選手を派遣したくは無いはずだからだ。
ところが、次に中国共産党政権が率いる中華人民共和国が、参加したいと表明したことから、話がややこしくなる。その当時、大陸本土の中華人民共和国(毛沢東・共産党)と、台湾の中華民国(蒋介石・国民党)という、中国が二つ在るコンセンサスが、国際的通り相場だった。
ところが、現在と大きく違うのは、一般的に正当な中国とされていたのは中華民国だったことだ。例えば、国際連合の常任理事国として認められていたことから、そのことが明白だった。また、学校でも、混同を避ける為、中華民国を“中国”、大陸の中華人民共和国を“中共”と分けて教えられたりしていた。
そこでインドネシアは、大陸の中華人民共和国に配慮して、台湾の中華民国を招待しなかった。その結果、参加国間がギクシャクしてしまう。業を煮やした国際オリンピック委員会(IOC)は、この大会を国際大会として認めない意を表明した。
この第4回アジア競技大会は、何とか開催出来たものの、東京オリンピックに大きな教訓を残してしまった。
その結果として、分断国家にどうやって参加してもらうかで、JOCの幹部は頭を悩ました。途中の経過は、今となっては不明だが、結果を見る限り、中国・朝鮮・ベトナムといった国々は、当時、日本と国交があった、中華民国・大韓民国・ベトナム共和国が招待され、中華人民共和国・朝鮮民主主義人民共和国・ベトナム人民共和国の選手団は、東京オリンピックに参加することはなかった。
蛇足だが加えると、現バングラデシュは、『東パキスタン』とされていて、統一チームで出場した。元々、英領インドだった地域が、インド・パキスタン・バングラデシュと3つに分かれるのは、1970年代に入ってからの事だ。
 
現代から考えると、毎大会でメダルラッシュになっている中国(中華人民共和国)が、オリンピックに参加しないことなど、想像出来ないと思う。しかし、1964年当時は、特段不思議には感じていなかった。何故なら、国際連合での認知だけでなく、当時、中国は文化大革命直前で、多くの国境紛争を抱えていた。したがって、本土の情報はほとんど外部に知られることがなかった。日本国内では台湾の情報だけで満足していたし、誰もがそれで不思議に思わなかった。
実際、東京オリンピックの入場行進の中継でも、
「次は、中国です」
のアナウンスと共に、台湾(中華民国)の選手団が、青天白日満地紅旗を先頭に行進した。現在見慣れている、中華人民共和国の五星紅旗でも、現在の梅花旗でも無かったが、特段の違和感もなかった。
ただ、国旗の前を行く自衛隊員が持つプラカードの国名表記が『China』でも現代では一般的な『Chinese Taipei』でもなく、『TAIWAN』だった事に5歳の子供にも小さな驚きをもたらした。
 
東京オリンピックのドイツチームも、現在とは違っていた。当時はすでに、東西二つのドイツが存在していた。どちらもスポーツ強国だ。しかも、選手の多くがゲルマン民族なので体格が良く、身体能力も優れていた。当然、どのオリンピックでも多数のメダルを獲得していた。どちらのドイツもだ。
そんな二国が、統一チームでオリンピックに臨んできたのだから、その脅威は幼稚園児が想像するより数倍すごかったはずでもある。それは、両ドイツとも望むところだったろう。国旗を統一させる為に、東ドイツ国旗にある鷲のエンブレムの代わりにオリンピックのシンボル、五輪を白無地で付けたそうだ。
当の選手達が、どう感じ思ったかは、今となっては想像するしかない。
 
そして、ドイツの選手が金メダルを獲得すると、
「〇〇選手と、ドイツ国の栄誉を祝し、ドイツを讃える曲を演奏し国旗の掲揚を行います」
というアナウンスが流れた。『国歌を演奏し』ではなかったことに、子供でも分かる違いを感じていた。
その時に流れた曲が、ベートベンの第九交響曲第四楽章『歓喜の歌』であることを、私は、6年後の小学校の卒業式で知った。私の小学校では、『仰げば尊し』の代わりに『歓喜の歌』の日本語訳を卒業生が歌う習慣だったからだ。
 
時が流れた1990年10月、テレビではブランデンブルグ門で行われている、ドイツ統一式典の映像が流れていた。統一を祝す式典の一つとして、世界一のオーケストラであるベルリンフィルハーモニー交響楽団が、『歓喜の歌』を演奏していた。
私は、感動と感激のあまり、
「これじゃ、ドイツには勝てないな」
と感じていた。
 
そして、その四半世紀前の光景を、再び思い返していた。

 
 
 
 

❏ライタープロフィール
山田将治( 山田 将治 (Shoji Thx Yamada))
1959年生まれ 東京生まれ東京育ち
天狼院ライターズ倶楽部所属 READING LIFE編集部公認ライター
5歳の時に前回の東京オリンピックを体験し、全ての記憶の始まりとなってしまった男。東京の外では全く生活をしたことがない。前回のオリンピックの影響が計り知れなく、開会式の21年後に結婚式を挙げてしまったほど。挙句の果ては、買い替えた車のナンバーをオリンピックプレートにし、かつ、10-10を指定番号にして取得。直近の引っ越しでは、当時のマラソンコースに近いという理由だけで調布市の甲州街道沿いに決めてしまった。

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2019-07-22 | Posted in 2020に伝えたい1964

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