2020に伝えたい1964

ベルリンから続く夢《2020に伝えたい1964》


記事:山田将治(READING LIFE公認ライター)
 
 

「神様って居るもんだなぁ」
2008年のオリンピック北京大会のこと。陸上男子4X100mリレーのゴール直後、3位入線(後に2位に繰り上げ)を知った朝原宜治選手が、喜びと驚きを中天高くバトンを投げ上げて歓喜を表現した時、私は咄嗟にそう呟いた。
オリンピックにおいて、陸上競技は格別感がある。その、格別な競技でのメダルは、神様から贈られない限りこの目で、日本人選手による獲得の瞬間など観ることは無いと考えられてきたからだ。
北京大会でアンカーを務めた朝原選手ですら、4回のオリンピックと6回の世界大会出場で、準決勝進出がやっとの状態だった。ごくまれに、決勝に進出しようものなら、どこか“目標達成感”が漂ったものだった。そんな朝原選手のメダル獲得を、私はまるで“神様がくれたメダル”と思ったりもしていた。
なので、次のオリンピック東京大会で、陸上男子100mと4X100mリレーで日本のメダル獲得が観られるかも知れないと考えただけで、来年が待ち遠しくて仕方が無い。
 
大河ドラマ『いだてん』の中でも、日本初のオリンピック短距離出場者であった三島弥彦選手が、
「(日本人は)100年経っても短距離(種目)は追い付けん」
と、語っていた様に、日本を含むアジア系人種は、欧米の選手に後れを取っていた。後に、黒人選手が多く出場する様になると、その差はますます広がったように感じられた。
戦前、陸上競技でも跳躍競技では、善戦していた日本選手は居たものの、トラック競技、特に短距離種目では全く歯が立たなかったのが実情だ。
そんな中で唯一人、日本人初の100mファイナリストになった人物が居る。吉岡隆徳さんが、その人だ。1932年アメリカのロスアンゼルスで開かれた、第10回オリンピック大会で、日本人として初めて男子陸上100mで決勝に進出し、6位入賞を果たした。しかも、当時の映像を観ると、吉岡選手はスタート直後トップに躍り出ていた。これ以降、日本人選手の決勝進出は、1992年のオリンピック・バルセロナ大会での高野進選手(400m)まで待たねばならないことにある。
 
島根県出身で、東京高等師範学校(現・筑波大学)に進んだ吉岡隆徳選手には、『暁の超特急』という実に格好良いニックネームが有った。これは、ロスアンゼルス大会で、100m・200mの金メダルを獲得したアメリカの黒人選手、エディ・トーラン選手が、その、極めて濃い褐色の肌から付けられた『深夜の超特急』にちなんで、日本の新聞記者が名付けたものだった。
その裏には、同年に傀儡国家・満州国が成立し、それに伴う、東京・新京(現・長春)間の“弾丸列車計画”が絡むという、政治的意図も含んでいたと考えられる。
 
ロスアンゼルス大会の翌年、吉岡選手はなんと、10秒3という、当時の世界タイ記録まで記録する。当然の様に吉岡選手は、27歳で迎えたオリンピック・ベルリン大会では、メダル獲得を期待された。
しかし結果は、10秒8という平凡な記録で予選落ちとなってしまった。ふがいない結果に責任を感じた吉岡選手は、精神的にノイローゼ状態になってしまった。自殺まで考えていたと伝えられている。
帰国後、小学生にもらったファンレターに励まされ、再び走り出す。
次のオリンピックは、1940年に地元開催となる東京大会だった。吉岡選手は、同年まで7回にわたって、日本選手権の100mで優勝している。しかし、1940年のオリンピック開催返上か決まると、陸上選手としての現役生活に別れを告げ、広島県で教員生活に入る。
吉岡選手の経歴で珍しいことといえば、1952年に創立間もないプロ野球球団、広島カープの専属トレーナーへの転身だ。まだ、プロとアマチュアの垣根が高かった時代では、大変珍しいことだった。
その後しばらくの間、こうした裏方生活を送った吉岡氏は、55歳の時にリッカーミシンが持っていた、陸上の実業団チームの監督として、陸上競技の表舞台に復帰する。55歳といえば当時、定年退職の年齢とされていた時代で、監督就任はまさに、吉岡隆徳氏の第二のスタートとなった。
 
1964年のオリンピック東京大会を目指す中で、吉岡氏は一人の女性アスリートと出会う。インターハイの80mハードルで、二年連続優勝を果たした依田郁子という長野県出身の選手だ。
名スプリンターの指導を受けた依田選手は、メキメキと実力を上げ、日本を代表するアスリートに成長した。しかし、21歳で迎えたオリンピック・ローマ大会の予選会で、代表選手から漏れてしまう。栄光への入り口に立てなかった依田選手は、ショッキングな事件を引き起こす。
何と、睡眠薬のオーバードーズ(摂取過剰)による自殺未遂だった。しかも、自殺を図った日が、日本のオリンピック選手団が日本へ帰国した当日だった。
その後、吉岡隆徳監督の熱心な指導で、再び第一線に復帰すると東京オリンピックの、有力メダル候補といわれるまでに復活した。
 
子供の頃から運動会が好きだった私は、5歳だったにもかかわらず、オリンピック東京大会の陸上競技は、可能な限りテレビで観ていた。
出場選手の中で、一人の日本人選手が目を引いた。半世紀以上たった現在でも、鮮明に覚えている。ただし、レース自体ではなく、その前の奇妙な行動にだ。
彼女は、コースに出るや否や、持参した長箒(ほうき)で自分のコースを掃き始めるのだった。まるで、これから自分が走るレーンを清めているかのようだった。次は、レモンを皮ごとかじりながら、掃き残しが無いかとレーンを見て回っていた。かじりかけのレモンをレーンナンバーが書かれた台に乗せると、スターティング・ブロックを確認した。何度も、何度も。
そして、スタート地点から後ずさりしたかと思うと、突然、後転倒立しながら両足を空中で自転車を漕ぐ様に動かした。再び立ち上がり、羽織っていたトレーニングウエアを脱ぐと、今度は全身にサロメチールを塗りたくった。サロメチールとは、当時の定番鎮痛消炎用の塗り薬で、鼻を突き抜ける様に強烈な臭いが残るものだった。効き目も強く、目の周りに着こうものなら、涙が止まらなくなる代物だった。最近、見掛けなくなったのは、もっと良い製品が出てきたことも有るが、サロメチールの臭いが、敬遠されているからだろう。
彼女はそのサロメチールを、腕や脚を始め、ユニフォームから出ている至る箇所に塗っていた。勿論、顔にも。
残された映像には、彼女のコメカミ付近に白く残るサロメチールを映し出している。
この女子選手こそが、依田郁子選手で、リッカーミシンに所属していた彼女のコーチが、吉岡隆徳氏だった。
 
オリンピック前のニュースで、依田選手が取り上げられていたことを記憶している。そのインタビューでは、年長のコーチ(吉岡氏)が、
「オリンピックの舞台で、私が置き忘れた夢を、是非とも取り返してほしい」
といっていたのを思い出す。
5歳の私が“奇妙な行動”と感じた依田選手は、陸上女子80m(現・100m)ハードル決勝でメダルを期待されたが、惜しくも5位で入線した。私は何故か、ゴール後のインタビューで、依田選手が自身の着順のことを、
「5“等”だったけど……」
と、どこか運動会の着順の様に表現していたことを、鮮明に記憶している。“5位”でも“5着”でも無かったことが、自分と同じく子供の表現に感じたからだろう。その時点でも、依田選手のコメカミにはくっきりと、サロメチールが残っていた。そして、彼女の右斜め後方には、当の依田選手よりも数段悔しそうなコーチの吉岡氏が、うつむいたまま微動だにしなかった。子供の目でも、メダルを取ることが出来なかった悔しさが、ありありと感じられた。
インタビュアーの男性アナウンサーも、心なしか涙声だった。
 
今回調べてみると依田郁子選手は、水泳の木原美知子(芸名・光知子)選手が、女子の個人競技では数少ないメダル候補だった。女子の競技自体がまだ少なく、参加人数も男子の1/7程度の時代だったので、その貴重さは別格だった。それと同時に、メダルを逃した瞬間はより一層の脱力感が有ったと思う。
時代はまだ、日本が戦争に敗れて‘たった’19年しか経っては居なかった。日本全体が、外国・特に欧米を凌駕することに対し、現代以上に執着していたと思えてならない。依田選手の結果に対する反応は、そうした執着への反動だったのかもしれない。
また、それに重ねて、吉岡隆徳氏の個人的な思い入れは、執念に近いものになっていたのだろう。
 
依田郁子選手は、オリンピック東京大会後、1965年に結婚された。その後、教育委員を務めたり、大学(東京女子体育大学)で後進の指導に当たったりしていた。
その指導は、自身の競技生活と同じく非常にストイックだったらしい。後進選手の生活を、実に几帳面に指導していたと語り継がれている。
既に第一線を退いているにもかかわらず、1983年になって痛めていた右膝の手術を受けている。
だが、術後5か月経って、依田郁子氏の死亡記事を、20代半ばになっていた私は、突然目にすることになる。死因は、鎮痛剤のオーバードーズと言われ、新聞紙面には“自殺”と書かれてしまっていた。遺書が残されていないことから、彼女の心中は誰も知らないままになっている。
オリンピック東京大会での彼女の姿が一生に残っている私は、悲しいと同時にどこか儚(はかな)さを禁じ得なかった。
 
一方の吉岡氏は、オリンピック東京大会後、リッカーミシンの監督を辞した。その後、1970年、60歳を超えた吉岡氏は、東京女子体育大学の教授という形で現場復帰を果たす。このことに触れ、吉岡氏は、
「100mは私の一生の友です。齢をとったからといって、この友と別れるわけにはいかない」
と、語っていたと伝えられている。
数々のマスター大会にも出場されていて、70歳の時に100mを15秒1で走り切ったという記録も残っている。
私は一度、何かのテレビ番組で戦前活躍したアスリートが、トラック一周をリレー形式で走る姿を観た覚えが有る。第2走(バックストレッチ)を任された吉岡隆徳選手は、現役時代と変わらぬフォームで一気に走り抜けた。他の3人とは格段に違う姿だった。
吉岡隆徳氏は、自らが大学に招聘した愛弟子の自死を悔やんだかの様に、翌年、天国に旅立った。ただし死因は、吉岡氏の陸上競技に対する思いであったかの様だった。
1983年に、吉岡氏は何とアキレス腱を断裂してしまったのだ。しかもその手術後の入院中に、末期の胃がんが見付かり、退院することが無く亡くなった。
陸上の仕事が忙しく、がんの発見が遅れたことも、70歳を超えてからのアキレス腱断裂という、陸上選手の宿命的ケガをしたのも、一度は世界に追いついた数少ない日本の陸上選手としての、吉岡隆徳選手の夢追いの道程だったと私には思えてならない。
 
戦前のオリンピック・ロスアンゼルス大会での吉岡隆徳選手以来、陸上100mのファイナリストは出現していない。
2020年の東京大会では、ファイナルに残りそうな選手が日本から出場する。
 
ベルリンで吉岡隆徳氏が見たであろう夢が、来年には実現するかもしれない。
どんな形にせよ、その瞬間を観逃す手はない。

 
 
 
 

❏ライタープロフィール
山田将治( 山田 将治 (Shoji Thx Yamada))
1959年生まれ 東京生まれ東京育ち
天狼院ライターズ倶楽部所属 READING LIFE編集部公認ライター
5歳の時に前回の東京オリンピックを体験し、全ての記憶の始まりとなってしまった男。東京の外では全く生活をしたことがない。前回のオリンピックの影響が計り知れなく、開会式の21年後に結婚式を挙げてしまったほど。挙句の果ては、買い替えた車のナンバーをオリンピックプレートにし、かつ、10-10を指定番号にして取得。直近の引っ越しでは、当時のマラソンコースに近いという理由だけで調布市の甲州街道沿いに決めてしまった。

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2019-08-27 | Posted in 2020に伝えたい1964

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