顧問の先生

【特別寄稿】丸屋嗣也「教養ってなんだろう」《原田実著『江戸しぐさの正体 教育をむしばむ偽りの伝統』(星海社)を読んで考える》


教養ってなんだろう。
これは、非実学であるところの歴史学を修めてしまったわたしの永遠のテーマだ。
社会に出てみると分かるが、教養というのは社会に出ても何の役にも立たない。普段の仕事において国語とか漢字といった教養を除いては大抵役に立つ場面はない。時折飲み会などでその知識のひとかけらを披露すると、「うわ、またあいつ、変なことを喋ってるよ」と白い目で見られたりする。結局社会に出て役に立つのは実学だったりするのである。
けれど、これを読んでいるかもしれない高校生諸君、この意見で自分の進路を実学に決めてしまうのは早計である。ちょっとこの老骨の話に耳を傾けてはくれないだろうか。

江戸しぐさ、と呼ばれるものがある。
かつてACなどでも紹介されたものだからご存知の方も多かろう。江戸期にルーツがあるとされるマナー集のことだ。もしかすると、「傘かしげ」や「肩引き」、「こぶし腰浮かせ」などの言葉を耳にしたことがあるかもしれない。はたまた、若い方だと学校で教わった、という人もいるかもしれない。それもそのはず、この江戸しぐさ、2000年代の初頭辺りから学校教育にも取り入れられはじめ、ついには平成26年の道徳の副教材(道徳には教科書がないため、事実上の教科書)にも掲載されているからだ。

だが、もしこの江戸しぐさのルーツが、江戸時代ではなくもっと最近、1980年代や、平成年間にあるとしたらどうだろう。

わたしの手元に、こんな本がある。
『江戸しぐさの正体 教育をむしばむ偽りの伝統』原田実(星海社)だ。
実を言うと、江戸しぐさがクサい、というのは、江戸好き、歴史ファンの間では自明のことだった。そういった人たちの誰しもが、「まあ、あんなデタラメ、批判するまでもなくいつか消え去る運命だろう」と高をくくっていたのだ。それはこの本の著者原田氏もそうだったと述懐しておられる。しかし、放っておいて幾星霜、気づけば道徳教育にまで切り込んできたという危機感からこの本は著されたという。
この本は、江戸しぐさを単体で批判した最初の本である。これまで部分的に江戸しぐさの危うさについて述べていた本はあったが、江戸しぐさを批判する、という明確な目的を持って書かれた本は今までなかった。それだけに、この本は江戸しぐさ批判の総決算のような本になっている。
この本が凄いのは、決して江戸しぐさの批判で終わっていないことだ。各江戸しぐさのトピックスを取り上げて「これは江戸の習俗ではない!」と指弾するのは簡単なことだ。しかしこの本の著者は、その江戸しぐさの元ネタに当たるものも指摘して見せる。そうして読み進めるうちに、「ほう、江戸しぐさの中には平成の頃の健康ブームが紛れ込んでいるのか、などという知識が頭に入ってくる仕組みになっているのである。
そしてそれら「元ネタ」を時間軸に落としていくうちに、江戸時代にルーツがあるとされる江戸しぐさの多くは1980年代から平成年間のものが多く、古いものであったとしても戦中戦後のマナーであろう、というところに落ち着く。そしてそれは、この江戸しぐさという概念を作り上げた人物や、その人物の思想を引き継いで(誤解を孕みながらも)広めた弟子たちの人生ともリンクしている。そう、江戸しぐさのルーツをたどることで、それが江戸期のものではなく、昭和期に生き、現代に生きている特定の人物の所産であることを明確に指摘しているのである。
こういう検証本や批判本の面白さというのは、推理小説の楽しさとも似ている。まず読者の目の前に前提が示され、その前提を探偵役が突き崩していく。推理小説と違うのは、小説特有の波がなく淡々と謎解きをしていくことくらいだろうか。だが、論理が前面に出ている分、パズルを解いていくような楽しさが溢れている。
最後まで、スリリングな読書の時間だった。

さて、ここからはわたしのほわほわした感想である。
わたしは、この「江戸しぐさの正体」にこそ、教養の素晴らしさが溢れているように思う。
教養は何の役にも立たない。
だが、上記の言葉には、ある言葉が隠れている。
教養というのは、実学に対して役に立たないだけである。
確かに教養というのは実学に干渉することは出来ない。歴史の知識でボイラーを燃やすことは出来ないし、音楽で飛行機を飛ばすことは出来ないのである。
しかし、社会というのは必ずしも実学のみで構成されているモノではない。
普段は実学が目立つから忘れているだけだ。この社会の裏側には、実学の光が当たらない教養の世界がある。事実、実学ではない江戸しぐさは、その闇の中でじわじわと広がっていき、やがて教育にまでその根を伸ばしていった。
そう、教養の支配する分野では、教養しかそのカウンターになることができないのである。
いい加減結論を書こう。世の中は実学だけで回ってはいない。そしてこの情報化社会、どういう得手不得手であるかなど関係なく実学教養の別なしに様々なジャッジメントがあなたに迫ってくるのである。
そういうときに、教養はあなたを助けてくれる。そして、あなたにしっかりとした視座を与えてくれるのである。教養というのは、情報化社会という荒波を超えるためのコンパスの一つなのだ。

というわけで、教養というものの片鱗を知る一助として、わたしは『江戸しぐさの正体』をお勧めするものである。

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2014-08-30 | Posted in 顧問の先生

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