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承認欲求のお葬式《川代ノート》


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記事:川代紗生(天狼院書店スタッフ)

「さようなら。今までありがとう」

私は人生の節目節目で、「感情のお葬式」というものをすることがある。なんてことはない。別に実際に参列するわけではない。一種の妄想だ。頭の中で、今までお世話になってきた感情に対してお辞儀をする。ありがとう、とお礼を言う。そして目を開ける。そうすると、なんだか過去の自分から解放されて、新しい自分になれるような気がする。思い込みかもしれないけれど。

頻繁にあるわけではない。ふと思い立った時、私はお葬式をする。さようなら、恋。さようなら、親への執着。さようなら、学生としての甘え。本当にその感情が自分の中からいなくなるとは限らないけれど、それでも、ひとつ自分の中で線を引いたような気分になるのだ。

これまでの人生の中で、「あ、今が転機かもしれない」と思う瞬間があって、そのときどきで必要に応じてお葬式をやってきた。いろいろな感情を弔ってきたし、その分、新しい感情が生まれてくることもあった。けれども私の中で、どうしてもさようならを言えない感情があった。

「承認欲求」。

あるいは、そのワードを耳にする人も、最近は多いのかもしれない。

他人から認められたいと思う気持ち。
まわりと自分を比べてしまう気持ち。
社会からの評価にふりまわされてしまう。とにかく、「世間の目」が気になって仕方がない、気持ち。

承認欲求に悩んでいる、いなくなっちゃえばいいのに、という声は、私が今25だからということもあるかもしれないが、頻繁に耳にする。とくに同世代で。就活生の頃からだったろうか。SNSが発達し、他人から「評価される」という機会が多い現代の社会で、私たちゆとり世代は日々、他人からの評価・期待と、自分本来の限界値との間でゆれ、劣等感に悩み続けている。

私は大学生の頃からブログを書いているのだが、「承認欲求」について考えることが、とても多かった。メインテーマは「女子と承認欲求」だった。
男子ももちろん大変だろうが、女子のなかではとくに、承認欲求の問題がよくある。女子は、ロールモデルが多く、多すぎるあまりに、「こんな人生が幸せ」というサンプルを得にくいからだ。仕事を頑張ってトップになったら絶対に幸せになれるというわけではない。数多くの男たちから告白されたら幸せになれるというわけでもない。結婚して子供を産めば終わりというわけでもない。
ナイトプールに行っている子だってバリバリ海外で働いているキャリアウーマンを見ると焦りを感じるし、東京でクリエイティブな活動をしているエディターだって、地方の田舎でパン屋をやっている主婦の丁寧な暮らしぶりに嫉妬するのだ。女の人生は、なかなか難しい。

そんなことをあれこれ書いていた。書いていると、気がつくことがあった。私が悩んでいるのと同じようなことで、みんなも悩んでいるということだった。
たとえば、私は周りからこれほど「認められたい」と強く思っているのは私だけかと思っていた。承認欲求がこんなに強い人間は珍しいほうだと。

思いながらも、恥をさらすつもりで自分の感情をブログにさらけ出したら、思わぬ反響があった。みんな同じだというのだ。私と同じように、承認欲求に、嫉妬に、劣等感に苦しんでいる。なかなか口には出せないけれど。

「ありがとう」と、感謝されることが多くなった。文章を書くことによって。
勇気を出して書いてよかった、と思うと同時にむくむくと、別の感情が湧き上がってくるのがわかった。不思議な恍惚というか、何かに興奮しているような、そんな感じ。けれども、その感情を何と定義するべきなのか、すぐにはわからなかった。

それからというもの、私はどんどん書くことにのめりこんでいった。書けば書くほど、共感してくれる仲間が増えていくのが面白くてしかたなかった。

「どうして、書くことを仕事にしたいと思うの?」

将来書いて食べていけるようになりたい、と私が言うと、こんな風に聞かれることがあった。何がきっかけだったの? 転機みたいなものはあった? 決定打は?

「わからないけど、ただ、文章を書くようになって、最初にいろんな人に読んでもらって、『共感した』って言ってもらえたときの、あの感動が忘れられなくて」

私はとっさにそう答えた。事実だった。やりたいことなんて、合理的に決めるものじゃないんだなと思った。ビビッとくる、というのか、「これがやりたい!」という直感に突き動かされて、決まるものなのだな、と。

けれども、そこまで考えたとき、私はあることに気がついた。

もしかして、私がこうして文章を書き続けているその原動力こそ、承認欲求そのものなのでは?
私は、認めてもらうために、承認欲求を満たすために、文章を書いているのでは?
もっと別の言い方をすると、私にとっては、承認欲求を満たす最も簡単な方法が、書くことだった。それだけだったのでは?

一見、矛盾しているようだが、事実だった。

私は、「認めてもらう」という大目的を達成するために、「承認欲求から解放されたい」というネタをコンテンツにし続けていたのだ。

承認欲求をなくしたい。他人からの評価軸で生きるのをやめたいと思っているのは事実で、その苦しみから逃れるために記事を書いていた。けれども、周りが共感してくれるのは、「承認欲求から解放された私」ではなく「承認欲求に苦しんでいる私」という内容。

つまり、私が承認欲求から本当に解放されてしまったら、誰も私の文章を読んでくれなくなるんじゃないか?

ものすごい恐怖をおぼえた。
今、まわりから必要とされているのは、「ポジティブに生きる、幸せな私」ではなく、「承認欲求に苦しんでいる私」なのだ。

ドロドロとしたマイナスの感情から逃れたいのは事実なのに、解放されない方が結果的にはおいしいという、とんでもない矛盾を抱えていたのだ。

私の中から承認欲求が消えたら、必要とされなくなるという、恐怖。
「共感してもらえる」という強烈な満足感を知ってしまったばかりに、「認められたい」の負のスパイラルに陥っていた。

いなく、ならないでくれ。

自分が嫌いだと思っていた感情に対して、そんな風に思ったのは、そのときがはじめてだった。

もはや私にとって、承認欲求はただの感情ではなくなっていた。
ひとつの、武器とすら言ってもいい。

承認欲求というツールを使って、私は不特定多数の、同じ苦しみを抱き、同じ痛みを抱えている人たちと繋がることができた。他者の持つ、「欠損」というものは、どうしてこうも魅力的に見えるのだろうか。そして、「欠損」によって繋がった人間関係というのは、どうしてポジティブな理由で繋がった人間関係よりもずっと、奥深くでしっかりと絆を紡いでいられるような気がしてしまうのだろう。

恐ろしかった。自分のことが。
このままでいいのだろうか、と思うことさえあった。

「書く」という作業をしていると、色々なことをネタにしようという視点が身についてくる。天狼院ではそれを、「ライターズ思考」と呼んでいる。
辛いことがあったり、苦しいことがあっても、「書くネタができた」と思えば、プラスに転換できる。世の中を見る目が、前向きになってくる。

けれども私の場合は、それが歪んだ方向に進んでしまっていたのかもしれなかった。

書くために、辛いことがありますようにと願った。
書くために、承認欲求が消えませんようにと願った。

どんどんと、負のスパイラルはすすんでいく。ぐるぐると下に向かう。

あ、これはもうだめだな、と思ったのは、知人が亡くなったときだった。

よく知る、自分と年の近い人間が死ぬというのは、思いのほか衝撃的で、私はしばらくその事実についてぐるぐると頭を巡らせていた。

そしてしばらくボーッと考えていたすえに、ふと浮かんだのは。

「これ、ネタになるな」

その瞬間、ハッとした。
今、私、なんて思った? 何を考えた?

こともあろうに、私は、人の死をネタにしようとしてしまっていたのだ。よく知る人間の死。辛い。その感情を描けば、きっと。

きっと、みんなから認めてもらえる?

どこまでも、私は承認欲求の奴隷だった。
人から認めてもらいたい、その感情と向き合うために文章を書き始めたのに、結果的に、承認欲求がないと困る人間になってしまっていた。

こんなやつで居続けて、いいのだろうか。

そんな疑問が、ここしばらくずっと、いや、もしかしたらここ数年ずっとかもしれないが、私の頭の中にあった。結論が出ないまま、時は過ぎた。

そうして、私は25になった。もうすぐ、26になる。

大学生の頃とは違い、働くようになった。この数年がむしゃらに働き、苦しいことばかりだったが、最近になってようやく、働くことの面白さみたいなものが、わかりかけているように思う。

ありがたいことに、店長や書く仕事、編集作業やイベントの企画など、幅広い仕事を任せてもらえるようになった。失敗することもまだまだあるが、これからも続けていきたいという、熱中できる仕事に出会えたことで、私の人生は変わりつつある。

結論から言えば、今の私は、承認欲求に頼って生きる必要がなくなってしまった。

きっかけとなったのは、福岡店のリニューアルを担当したことだった。今年の5月のことだ。

私は子供の頃からチームで動くということがとても苦手で、一人でいる方が好きなタイプだった。リーダーとして周りをひっぱっていく才能もないし、部活の中で先輩後輩の上下関係のなかで要領よく立ち回るのも苦手だった。

けれども、福岡店のリニューアルをするためには、チームで動かざるをえなかった。目標を達成するためには私一人の力ではどうにもできない。店舗というのはスタッフ一人一人が動き、そして、お客様に感動を与えられるようにみんなで工夫していかなければならない。

どうしたらお客様に「来てよかった」と言ってもらえるのかと、そればかりをずっと考えていた。
そして思いつく限りのことはやった。スタッフからあげられたアイデアはすぐに取り入れ、実行した。うまくいくこともうまくいかないこともあった。けれども失敗と成功を繰り返して、リニューアルは徐々に進んでいった。お客様に「ありがとう」と言っていただけることが増えた。

ふと、顔を見上げると、私は「認められたい」という衝動によって動いていることが圧倒的に少なくなっていることに気がついた。
たしかに、「みんなにこう思ってほしい」という感情はあった。けれどもそれは、認められたいという承認欲求とはまた別の感情のような気がした。私がこうなりたいとかじゃなくて、みんなに、楽しんでほしいとか、笑っていてほしいとか、居心地が良いと感じてほしい、とか。

口にするのは照れ臭いけれど、それは、承認欲求ではなくて、愛情なんじゃないかと、私は思う。そう思いたい。

自分ではない誰かのために動く面白さは、まわりから認めてもらえたときの興奮とは、また違った震え方をした。優しく穏やかに、じんわりと広がっていくような。

今、冷静になって思う。
あるいは私は、居場所がほしかっただけなのかもしれない。
「認められたい」という感情は、言い換えれば「あなたはここにいていい」と許してもらいたいという欲求なのだ。自分にはどこにも居場所がない。そんな不安に掻き立てられると、必要とされたいと思う。認めて欲しいと思う。「あなたは価値のある人間だよ」と言ってほしいと、願う。

だから、「承認欲求」というネタも、ある種私の居場所づくりのために必要だったのだ。承認欲求について語っているときは、私は「ここに居ていい人間」になれる。そんなふうに。

仕事をして、仕事が好きになって、人のために動く面白さみたいなものが、徐々にわかりかけている今、私は自分の居場所を「承認欲求」コンテンツ以外のところに、もう見つけてしまったような気がする。

だから、ようやく。
随分時間はかかったけれど、承認欲求にさようならをする日が、来たのかもしれない。

感情のお葬式。

これまで、さまざまな感情を弔ってきた。お別れしてきた。

執着心。
焦り。
嫉妬。
劣等感。

これらは私の中で抹消されたわけではないけれど、ぴっと一本、線を引いたことで、ずっと遠くの物に感じられる。

けれどもずっと、離れられない感情があった。

承認欲求。認められたいと思う気持ち。

なぜなら、私は承認欲求に依存し、承認欲求というコンテンツによって、甘い汁をすすり続けてきたからだ。
いなくなってほしい相手であり、いなくなったら困る相手でもあった。

けれどもうそろそろ、お別れしてもいいのかもしれない。

認められたいと思わなくなるわけじゃない。
世間の目が気にならなくなるわけじゃない。

だけどでも、「さようなら」と一言、言ってもいいような気がする。
もう、あなたの役目は終わりと、お辞儀をして、お別れをしてもいいように思うのだ。

だって私は、幸せになるために生きてるんだから。
不幸の数をあつめて、不幸自慢をして、辛いことや悲しいことをネタに共感してもらって、それで仲間を増やすために生きているわけじゃ、ない。

面白いことや楽しいことをやって、「居心地がいいな」と思う人と一緒にいて、そして、幸せになるためにここにいる。生きている。

欠損を分かち合うことで繋がり合えることもたしかにある。
けれども、最高に面白い瞬間を共にすることで繋がり合える絆の強さも、私は知ることができた。

子供の頃からずっと、心のどこかで居場所を探していた。

家族といても、学校にいても、恋人といても、どこか、ぽっかり穴が空いたような気がすることがあった。
私には居場所がないような気がした。
求められていないような気がした。
社会に必要とされていない気がした。

でも私には今、いるべき場所がある。

必要としてくれる人がいて、大切にしてくれる人がいる。大切にしたい場所もある。大切にしたい人も、たくさんいる。

あるいは、そんな風に思う今の私は、必要とされないかもしれないけれど、それでも、いい。

承認欲求はもはや、朽ちかけているコンテンツに過ぎないのだ。

ありがとう。

私は今まで、あなたのおかげで色々と楽しむことができた。味方が増えた。仲間ができた。居場所ができた。

おそらく承認欲求と気がすむまで向き合い続けた期間があったから、私は今前を向けているんだろうと思う。

そろそろ、さようならを言おう。
ずっとずっとお別れを言えなかったけど、あなたを弔うことにする。

次のステージに、私は進む。

不幸集めをして満足する人生は、もう終わりにしよう。

心が、震える。
静かに震える。
何かが変わりゆくときの、振動だ。

ほんの少しの寂しさと、不安と。
未来への期待で、震えているのだ。

さようなら。

❏ライタープロフィール
川代紗生(Kawashiro Saki)
東京都生まれ。早稲田大学卒。
天狼院書店 池袋駅前店店長。ライター。雑誌『READING LIFE』副編集長。WEB記事「国際教養学部という階級社会で生きるということ」をはじめ、大学時代からWEB天狼院書店で連載中のブログ「川代ノート」が人気を得る。天狼院書店スタッフとして働く傍ら、ブックライター・WEBライターとしても活動中。
メディア出演:雑誌『Hanako』/雑誌『日経おとなのOFF』/2017年1月、福岡天狼院店長時代にNHK Eテレ『人生デザインU-29』に、「書店店長・ライター」の主人公として出演。

この記事は、天狼院書店の大人気講座・人生を変えるライティング教室「ライティング・ゼミ」講師、川代が書いたものです。ライティング・ゼミにご参加いただくと記事を投稿いただき、編集部のフィードバックが得られます。チェックをし、Web天狼院書店に掲載レベルを満たしている場合は、Web天狼院書店にアップされます。

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