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記事:Nada(ライティング・ゼミ日曜コース)
 
「結婚」
アラサー独身女性にとって、心をざわつかせる二文字。
聞きたくないし、聞かれたくもない言葉だ。
それはどこにいってもつきまとう。
初対面の人。久し振りに会う人。会社でも親戚の集まりでも親の口からも出る。
その度に、私は適当にはぐらかした。13年間、はぐらかし続けなければならなかった。
 
私と彼が出会ったのは15年前。
私が高校2年生の時だった。
第一印象は「前科ありそう、違法なものを運んでいそう、薬とかやってそう」
金髪でちりちりパーマ、やたらと大きいスニーカーを履いていて、眉毛がほぼない。
口にピアスの後。目は空いているのか空いていないのか分からないくらい細い。
猫背だから分かりにくいが、私より20cmくらい背が高かった。
当時、女子高生だった私の世界にはいないタイプの人だった。
だから惹かれるものがあった。どんな人なんだろうと興味を持った。
 
「休みの日は何してるん?」
私は人見知りが激しく、バイトの制服である帽子を目深にかぶり、
あまり人と目を合わせなかった。
そんな私に対して、いろいろと気遣うように話しかけてくれた。
彼は意外にもそのバイト先では、店長に次ぐリーダー的なポジションだった。
 
「特に……テレビ見たりとかしてるだけです」
こんな不愛想な返しにも、「ははは、そっか、俺もテレビよく見るわ」と笑ったり、同調したりしてくれた。だから、ほかのバイトメンバーよりも話しやすかったのをよく覚えている。
 
そして、私が大学生になったころ付き合うことになった。それから私は変わった。
音楽好きな彼の影響で、ロックフェスに行くのが趣味になった。
服も必要最低限しか買わなかったのに、少し高価なものも買うようになった。
 
私たちは2歳違いで、私は短大。彼は四大だったので、就職のタイミングが同じだった。
私は平日休みの仕事に、彼は土日休みの仕事に就くことになった。
 
「結婚しよう」
「だから仕事はそんなにしなくていいから、休みを合わせてほしい」と彼から言われた。
でも、私は断った。
自分の手に職をつけてお金を稼ぎたい、夫の給料を充てにして生きるのは嫌だったからだ。
私の親がそうだったが、父が一度リストラされてから家庭環境は悪くなった。
自分も同じ道を歩みたくはなかった。
でも、この「結婚への近道」を選択しなかったことは後々、私を苦しめることになる。
 
休みの違う私たちはすれ違うようになった。
私は仕事が楽しく、仕事の話ばかりするのに対し、彼は仕事が楽しくないようだった。
「仕事の話ばかりするのは辞めて」不機嫌そうにそう言うのだった。
学生のころとは生活習慣が変わり、お互いの価値観も変わってしまった。
 
「別れよう」
彼から告げられた。辛かったが、薄々こうなることは気づいていた。
「分かった」とだけ告げて、それから私から連絡をすることはなかった。
もう会うことはないのだろうと思った。でも、それは違った。
 
「今年の夏フェス行く?」
別れて半年くらい経った後、彼から軽く連絡が来た。
今まで別れてから友達になるような経験はなかったので驚いたが、ロックフェスに行くような友達は他にいなかったので、また一緒に行くことになった。
 
夏は、夏フェス。
冬は、カウントダウンフェス。
半年に一回、会うのが当たり前になった。
気付くと、私たちはよりを戻していた。
そして休みが合わないから同棲を始めた。
 
「あんたら、なんで結婚しいひんの?」
そう言われるのが当たり前になってきた頃、私の父の病気が発覚した。
私は自分のプライドを投げ捨てて、逆プロポーズをした。
「正式には結婚しなくてもいい」
「お父さんのために花嫁、花婿姿で写真だけでも撮って欲しい」と泣いて頼んだ。
それでも彼は、首を縦に振らなかった。
強制的にひきづり込もうとした「結婚への横道」は彼の頑なな意思で進むことができなかった。
 
彼は、私のお父さんの最期に立ち会った。
「もっと色々してあげたかった」と私は後悔ばかりして泣き続けた。
その隣で「そんな事を言っても仕方がない」と言った。
きっと多くの人は冷たいと思うだろう。
でも、私は違った。例えば「大丈夫だよ」と根拠もなく慰められるより、「仕方がない」という現実的な言葉が自分にとって腑に落ちたのだった。
 
「運命」を信じているわけではないが、
お父さんが私の結婚を見届けられない事はもう決まっていた事で、私にも彼にもお父さんにも誰にも罪はない。
起こってしまったことは仕方がないのだ。それはもうどうしようもないのだ。
そう思う事で誰かを責めずにいられた。きっとこの時すぐ隣で「仕方がない」と言われてなければ、今も後悔をひきづっていたかも知れない。
 
お父さんが亡くなってから、私から彼に「結婚」の話題をすることはなくなった。
友人からは「そんな人もう別れたほうがいい」と何度も言われた。私もその度、他に良い人がいないかと真剣に悩んだ。私の仕事は多くの人に会うほうだ。婚活パーティーにも参加した。それでも彼以外、自分にしっくり合いそうな人はいなかった。他の人を好きにはなれなかった。
 
「わたし結婚できんでも子供おらんくても
彼氏と一緒にいたら楽しいから、もうそれだけでいいわ」
こう言うと、既に結婚し子供もいる友人から物凄く驚かれた。
「うちなんか子供がいるから、今の旦那と一緒にいるだけやで」「その感覚はすごいわ」
そう言い、もう私に「他に良い人がいる」とは言わなくなった。
「なんだかんだあんたは幸せやわ」そう言われるようになった。
私は彼を信じて待つ、そう思うようになった。
 
「ハッピーバースデー」
彼の35回目の誕生日が来た。
私はケーキだけ用意し、お祝いの言葉を伝えた。
「誕生日おめでとう、これからも一緒にいようね」
「うん、とりあえずいい夫婦の日に入籍しよか」
あっさりと彼は言った。
もう結婚はないと思っていた私は驚いた。
 
そして、令和元年11月22日、私たちは結婚した。
 
出逢って15年。
付き合って13年。
同棲して7年。
結婚して3日の夫婦だ。
 
10代のとき、就職を理由に近道もあった。
20代のとき、父の病気を理由に、強制的に横道に入る方法もあった。
それなのにわざわざ回り道して、30代でやっと「夫婦」という次の関係性を始められた。
そのプロセスが大事だったんだと今は思う。
 
私はきっと10年後も20年後も、夫だけが好きなのだろうと思う。
まだまだ若輩者の夫婦だが、一緒に過ごした年数や乗り越えた経験からそう思うのだ。
たくさんの思い出の共有が、この人しかいないと思う根拠になっている。
もちろんこれから先、何があるか分からない。不安は当然ある。
でも今思うのは、結婚できたかも知れなかったあの時、無理に結婚しなくて良かった、ということ。
なにかを一緒に乗り越えた経験があるのと無いのとでは、「結婚」に対する重みが全く違うからだ。
 
「一生1人の人に愛を誓う」
たった1枚の紙を提出するだけなのに、日本の法律で大きな効力を持つ「結婚」
この二文字に振り回された私の13年間は、きっと無駄ではなかった。
私にとって必要な回り道だったんだ。
 
 
 
 
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2019-11-28 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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