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ママがおうちを出て2年になりました


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記事:安光伸江(ライティング・ゼミ平日コース)
 
 
2018年1月18日未明、母が死んだ。がんだった。
 
数年間ほぼ寝た切りで介護をしていたけれど、それは圧迫骨折でほとんど歩けなくなったからであって、がんになっていたのは知らなかった。前年11月頃から食べたものを吐くようになり、これは自宅での看取りをしてくれる先生に主治医を変わった方がいいよなぁということで介護の体制を変えることにして、先生から吐き気止めをもらったけど効かなくて往診もしてもらっていた。
 
そして翌週から介護の体制が代わりヘルパーさんが来るようになる直前のこと、私が乳がんの術後治療で点滴を受けに行く日にもまた吐いた。出かける前に大慌てでシーツを洗い、点滴を受けて帰ってきたら、ずる~っとベッドから落ちかけていた。紙パンツを履いていてトイレには自力で行く、という条件で介護していたのだけど、部屋の隣にあるトイレにも行けずに使い捨ての紙シーツも汚していた。
 
その頃は私も追い詰められていて、どうしていいかわからなくなった。ともかく着替えさせて紙シーツを取り替えた。お風呂は訪問看護の方に入れていただいていたけど、トイレに行けないとなると私では手に負えない。私は2016年秋に乳がんの全摘手術をしていて、脇の下のリンパ節も全部取ったのでしびれが残り、左側では重たいものが持てないのである。だからトイレには自力で行く、そして包丁が苦手で料理もできないから、朝は卵焼き、昼はパン、夜は買ってきた惣菜を、食堂まで自力で食べに来る、それで介護が成り立っていた。
 
だけど、だけど……
 
吐く。食べたら、吐く。吐き気止めを飲んでも吐く。ケアマネさんに相談したら、介護体制が代わってヘルパーさんが来るようになる翌週まで、ショートステイに預けましょうということになった。それまでしっかり休んでください、と言われた。
 
母は、介護については、「おねえちゃん(私のこと)がええ、おねえちゃんだけがええ」という人だった。私は二人兄妹の妹なんだけど、ぬいぐるみのおねえちゃんだからそう呼ばれていた。自分のことは私にもぬいぐるみたちにもママと呼ばせていた。ママはおねえちゃんが大好き。おねえちゃんがおればええ。県内の遠くに住む兄が引き取ろうかと言った時も「伸江がええ」とはっきり言ったそうだ。ママはおねえちゃんが大好き。これは今でも誇らしくなる。
 
ショートステイに預けるという相談をしているとき、母は何も言わなかったけれど、施設の人が来て車椅子に乗せられて車で運ばれる後ろ姿は悲しげだった。悲しそうに手を振っていた。ママ、ママ、って私も泣いた。いっぱい泣いた。私は、とにかく休め、と言われたので、ショートステイ先に見に行くことはせず、家で泣いて暮らしていた。
 
ショートステイ先では、吐くからというので個別対応だった。普通食はもちろんダメだから、刻み食(私には作れない)にしたけどそれでも吐いたそうだ。だから私が料理できないから吐いたわけではないらしい。その点だけはほっとした。
 
ショートステイから帰ってきたら、なんとかして下の世話をして、食べることもいろいろ考えないといけない。食べられるものを探さないといけない。いろいろ悩んでいたら、ショートステイ先で血便が見つかり、これは医療の方に回した方がいい、ということになった。一度家に引き取ってから病院へ、という話だったけど、訪問看護の契約に来てくれていた看護師さんが私の泣いている様子を見て「ダメです、泣いてます」と主治医の先生に報告し、先生の紹介でその日のうちに病院に入れることになった。
 
私がうつ病と乳がんで調子が悪いこともあり、介護をひとりでやるのが無理だから、落ち着くまでしばらく病院で預かってください、という話になっていた。
 
病院では絶食で、点滴で栄養補給することになった。検査をしたら肝腫瘍が見つかった。母は治療を希望したので大病院で精密検査を受けた。付き添いの兄と私に、胃の入り口にがんができていること、そこからあちこちに転移していること、を告げられた。積極的治療はせず、元の病院に戻して、静かに逝かせた方が、ということになった。さらに病院の勧めで緩和ケア病棟のあるところに年が明けてから転院し、1週間ほどで亡くなった。最後の数日は意思の疎通ができないほど朦朧としていた。
 
最初の病院で母と話したことをいろいろ思い出す。
 
「見捨てられたんかと思った」
 
ショートステイに入れた時、母はそう思ったそうだ。おねえちゃんがええ、おねえちゃんだけがええ、と言っていたのに、おねえちゃんに見捨てられた。そう思ったら絶望しただろうと思う。でもそうじゃなくて、おねえちゃん一人ではお世話がしきれないから、いろんな人の助けを借りることにしたんだよ、というと納得してくれた。
 
「産んでくれてありがとう」
 
肝腫瘍がわかった頃にそう言えたのはよかった。それを言ったということは死期が近いということだな、と感づかれたとは思うけど。
 
死ぬ時は夜中に電話で呼び出されて駆けつけたけど、部屋に着いた時には息が止まっていた。だから私にとっての母との別れは、その死んだ時よりも
 
ショートステイに送るときのあの後ろ姿
 
だったなぁ、と思う。それから少し持ち直して話ができたのはよかったけれども、母が家を出た2017年12月7日が、母とこの家との別れだったんだなぁと思う。
 
母が亡くなった日も私は点滴に行った。点滴は3週間ごとだったから、母をショートステイに入れてちょうど6週間で亡くなったことになる。その日私は泣かなかったから、先生に「強いね」と言われた。でもね。母が家を出てから、ひとりでいっぱい泣いてたんだよ。もう死んじゃうんだ、ってわかってからも、生きててほしい、と思ってたよ。
 
母は私のがんを持って行ってくれたのだろうか、すぐ再発するだろうと思われていた私の乳がんも再発・転移なしで術後3年3ヶ月が経過した。このままよくなっちゃうんじゃないかと思うくらいだ。母と、乳がん発覚前に急逝した父が、天国から見守ってくれてるんじゃないかと思う。
 
ご両親がまだ存命の方へ
どうか、いろんな話を、生きているうちにしてあげてください。
 
お身内を亡くされた方へ
きっと、天国から見守ってくれてるから、話しかけてあげてください。
 
ママ、ありがとうね
天国で、幸せでいてね。
 
ママがおうちを出て、2年になりました。さみしいです。
 
 
 
 
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2019-12-13 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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