メディアグランプリ

シングルマザーの私とラムネ


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記事:五十嵐千代(ライティング・ゼミ平日コース)
 
 
タクシーの中だった。
涙があふれて初めて、自分がいっぱいいっぱいなんだと気がついた。
 
「間に合わない!」
 
4歳の娘と全力で走りながら駅まで向かっていた道で、仕方なく飛び乗ったタクシー。なんでそんなに急いでいたのか具体的なことはすでに記憶の外だが、当時は私の時間軸と幼い娘の時間軸のズレをコントロールすることは不可能で、余裕を持って始めた行動もいつの間にか常に綱渡りだった。
 
娘を先に乗せ、息が上がりながらシートに座る。
運転手さんはがっちりとした背中に長い髪。男性の身体で生まれ、心の性に従って女性になった人だった。
 
信号で停車すると娘に「お嬢ちゃん、飴どうぞ」とやさしい声をかけてくれた。助手席に置かれた、大量の飴が入った箱を娘に差し出す。
「わあ。ありがとうざいます」私は反射的に応え、娘は小さな手で一つの飴を取り出して
「ありがとうございます」とゆっくりお礼を言った。
 
その後だ。
「お母さんもどうぞ」そう言われて、一瞬なんのことかわからなかった。
「お母さんも、飴どうぞ」もう一度言われて
「……あ! ありがとうございます」やだ、私も子どもみたい(笑)。
 
掌に載せた、いかにも子どもが喜びそうな可愛いらしい包み紙の飴。車内に差し込む優しい秋の光。運転手さんのやわらかい声は、母のやさしさに似ていて……急速に心がほどけたと同時に涙があふれだした。
 
飴をもらった。たったそれだけのことで、私は泣いた。
 
そこで初めて、自分が仕事と子育てで(その上、当時は離婚の協議を抱えていた)いっぱいいっぱいだったんだと気がついたのだ。
 
シングルマザーの生活はiPhoneみたいだ。常にいくつもの機能を同時並行させている。料理や掃除、洗濯など家事をしながら子どもの話を聞いたり勉強をみる。そこに持ち帰りの仕事やら、溜まったメールの返信やらweb会議が挟み込まれることもしばしば。逆に仕事の時間に子どもの急な熱やケガで呼び出されることもある。
 
そしてこういう時、自分以外、対応できる人はいない。
 
子育て中はただでさえマルチタスクだが、シングルマザーは一家の大黒柱であり、主婦であり、子どもの教育者でもある。
 
つい最近、地域の子育てグループのメンバーから「シングルマザーにとって、これ、あったらいなっていうものって何?」と聞かれ、すぐに出てきた答えが「男手」だった。
 
重いものを運ぶとか、高いところのものをとるとか、電球を換えるとか、家の修理をするとか。まあ、厳密にいえば男性でなくてもいいのだけれど、いわゆる“男性性”が欲しい場面は暮らしの中に結構ある。
 
それと、娘が父性を感じる機会。父親に肩車をされて、ここから落ちることはないという絶対的な安心の中で、高い場所から見る世界の広がりを楽しんでいる小さな女の子。父親にベターっと身体をもたせかけて、ケタケタ笑っている女の子。色んな場面で遭遇する父親と娘の何気ない姿に、胸がチクッと痛む。
ボーイスカウトのお父さんたちは誰の子どもでも同じように接してくれるからいいよと聞き、娘を入れようと思ったこともあったが、私が忙しくて付き添いができないので断念した。その時、わざわざ何かに所属しなくても地域に「みんなのお父さん」的な人がいたらいいのにな、とぼんやり思った。
 
だからといって、安易に「男手」、いや「男性」に甘えるわけにはいかない。シングルマザーはモテる。既婚者に。既婚者に、という時点で「モテる」ではなく「見縊られる」が正しいのかもしれないけれど、自己卑下するような表現はむなしくなるので「モテる」ということにしている。私の友人たちもびっくりするくらいみんな同じ経験をしている。そういう男性を撃退するために友人が使っている決め台詞はこうだ。相手の目を見据えて
 
「私と一緒に地獄に落ちられますか?」
 
大概の既婚男性はその言葉を聞いて「はっ!」と我に返るという。
 
まぁそんなわけで、物理的に男性性が必要、子どもにとっての父親がほしい、と思っても細心の注意が必要なのだ。
 
なんだか大変なことばかりのようだが、実は私自身はシングルマザーになったことでのプラス面の方がうんと大きい。
まず、「全ての責任を自分でとる」と決めたことと引き換えに得た自由がある。自分で決められるという自由だ。
それと、自分にはできないとか自分のやることではないと決めつけていたことを、やらざるを得なくなったことで、「できる」ことが増えたし、自信や強さも培ってこられたと思う。
そしてなにより、離婚という自分を見つめなおす絶好の機会をえて、ものの見方が変わり、出会う人たちが変わり、今は感謝の日々を過ごしている。
 
とはいえ一家の大黒柱であり、主婦であり、子どもの教育者でもあるという中で、男性の手を借りるときは細心の注意を払う、という状況は変わらない。
 
iPhoneはマルチタスク状態を続けていると、アプリがよく落ちる、という現象が起こる。そういう時は、同時進行している機能のうち本当に必要でないものは“スゥイッ”と指で上にスワイプして終わらせる必要がある。
 
あの時、タクシーで流した涙は、私が心に抱えていた必要のないタスクを終わらせてくれたんだと思う。あの時泣いていなかったら、私の中の何らかのアプリが落ちて大きな失敗をしたか、私本体の身体や心が不具合を起こしていたんじゃないかと思う。
 
「いつかまた、あの運転手さんのタクシーに乗ってお礼を言いたいなぁ」
 
そう思っていたら、何年かして偶然その機会に恵まれた。運転手さんに当時の出来事とお礼を言うと「そうだったんですねぇ」と、またあの優しい声で微笑んで「今はね、ラムネにしたんです。どうぞ」と子どもが好きそうなキャラクターのラムネをくれた。
 
なんだか、もったいなくて食べられない。
 
そのまま持ち帰って、部屋に置いた。
相変わらず忙しい日々の中で、そのラムネがふと目に入ると
「お母さんも、どうぞ」
あの時が思い出されて”スゥイッ“と私のマルチタスクを終わらせてくれる。
 
 
 
 
***

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2020-10-24 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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