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メディアグランプリ

心が弱っているときは、良いとされていることをしなさい


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事:田中 伸一 (ライティング・ゼミ日曜コース)

 
 
「社長、大丈夫ですか?」
「心配してくれてありがとう。こう見えて私、けっこう打たれ強いから。お疲れさまでした」
夜20時を回った。最後の一人を送り出して、私はトイレに向かった。これから掃除するのだ。
トイレ掃除は、私の仕事だ。朝は弱いので、いつも帰り際に掃除している。
「経営者が毎日トイレ掃除をしたら、会社が良くなる」
そんな話を聞きかじって、何となく始めた習慣だ。
掃除の仕方は、ハウスクリーニングのプロに習った。ホコリを払い、クエン酸液をつけて磨き、水拭き、空拭き。最後はモップをかけ、洗面所の蛇口をピカピカにして終了だ。
教えてくれた先生は、
「1日5分。長くて10分。毎日きれいにしてたら、そのくらいで終わります」
と言っていた。要領のわるい私は、どういうわけか必ず15分以上かかってしまう。手早くできるようにと、毎日タイムアタックしていた。
でも、今日は違った。何分かかってもいい。完璧にやる。そうせずにはいられない気持ちだった。
 
昼間、つらい面談をした。みんなが一生懸命なのに、ちょっとしたボタンの掛け違いから、すれ違いが生じ、それが取り返しのつかないところまで行ってしまった。大切な仲間たちの関係だ。どうにか元に戻したくて、ひたすら話を聞き、解決策を話し合った。でも、切れてしまった心は、再びつながることはなかった。どうして、人の気持ちってこんなに簡単に離れてしまうんだろう。
泣いたり、わめいたりした方が良かったのかもしれない。それすらできなくて、結果的に望まない決断をせざるを得なかった。
 
どうしてだろう。これからどうしたらいいんだろう……。
そんな思いがぐるぐると頭の中を回ってしまう。思いを封印するように、掃除する手に力を込めた。そのとき、中学生のときに聞いた言葉が耳によみがえってきた。
 
「家の中で、どうしても腹に据えかねて、口を開けば誰かを傷つけそうになったら、私は窓ふきをします」
化学の井野口先生が授業中に突然言い出した。いつも真っすぐな背筋。ピシッと七三に分けられた髪。丁寧な言葉遣い。謹厳実直という言葉は彼のためにあるのではないか、と思うような先生だ。どうしちゃったんだろう。
「家じゅうの窓がピカピカになることもあります……」
先生は、窓の外を見たまま、言葉を切った。何かにじっと耐えているように、口を固く結んでいる。その姿は、痛々しかった。
悪ガキたちは、休み時間になって言い合った。
「きっと、ああ見えて、先生は奥さんの尻に敷かれてるんだよ。言いたいことも言えないんじゃないか?」
「だいたい、真面目すぎるんだよ」
……確かに、自分の家族や親戚、そのほか今まで出会った中年男といったら、頼りにもなるけれど、どこかだらしなさを平気でさらすような人ばかりだった。先生が人前で平気でオナラをしたり、酔っぱらって管をまいたりする姿は、とても想像できない。その先生を、それほどまでに怒らせることって、あるんだろうか……。
 
中学生には中学生の悩みや苦しみがあるように、大人には大人の悩みや苦しみがあるとは、当時の私には分からなかった。
でも、今日は井野口先生の言いたかったことが、痛いほどわかる。
鼻の奥がツーンとしたと思ったら、便器に涙がポタッと落ちた。抑えようとしても、肩が小刻みに揺れる。そうなると、もう止まらない。
「なんでこうなっちゃうんだよ」
「バカヤロー」
誰にというわけでもなく、とにかく悲しく、悔しかった。人目がないのをいいことに、泣きじゃくりながら掃除した。もう、汚れているかどうかなんて、関係ない。親の仇のように、すみずみまで専用のブラシも使って磨き上げていく。
 
そうしているうちに、次第に自分で自分を説得し始めた。今、苦しくなっているのは、自分がそうなるように経営してきたからだ。誰のせいでもない。自分の問題だ。トイレ掃除をサボってどうしようもない汚れが溜まってしまったようなものだ。だったら、これからはそうならないようにするだけのこと。失われた信頼関係を立て直すのは、簡単ではない。けれど、毎日掃除するように、これからコツコツと努力すれば不可能ではないはずだ……。
 
30分後、トイレはピカピカになった。私も、もう泣いていなかった。
「きっと、今日のこと、何年かたったらネタにできるな」
そんなことを考える余裕も出てきた。
大した能力はないが、立ち直りの速さには自信がある。根拠はないが、何とかなるような気がしてきた。
 
トイレ掃除の効用には、いろいろなことが言われている。
「社員を思いやる心が生まれる」
「すべてのことに感謝できるようになる」
「改善マインドが育まれる」
などなど。人間のできていない私には、とてもそんな効果があるとは思えない。
でも、モヤモヤした思いをいったん脇に置いて、目の前のことに集中できるのは、とても貴重だと思う。
中世の修道士、トマス・ア・ケンピスも「キリストにならいて」で言っている。
「心が弱っているときは、むしろ体を動かして良いとされていることをしなさい」
気分転換と称して、遊んだり酒を飲んだりして、問題から逃げたとしても、何の解決にもならない。問題は目の前にあって、去ってくれるわけではないからだ。
かと言って、無理に頭で自分を説得して、正しい考えに修正しようとしても、できないときはできない。自分の弱さばかり見ていたって、どんどん暗くなって袋小路に入り込んでしまう。
とりあえず、そのことはいったん脇に置いて、身体を動かして良いことをする。それは、キャベツを植えることでも、掃除をすることでもいい。そうすれば、とりあえず誰かの役に立つ。自分がしたことで、誰かの役に立てば、少し気分が前向きになる。前向きになった気持ちで元の問題を見つめなおしたとき、違った見方が生まれてくるかもしれない。
 
井野口先生もきっと、そんなふうに考えていたのだろう。
当時の先生は、今の私より一回り年下だった。私がやっと気づいたことを、30代の若さで実践していたのだ。改めて尊敬する。
 
「井野口先生、あのとき、何に苦しんでおられたのでしょうか。いつまでたっても愚かな私ですが、つまずいて転びながら、少しずつ学んでいます……」
先生と、そんな話がしたくなった。

 
 
***

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2018-07-25 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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