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「死」が残された人へのギフトだとしたら


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

【10月開講】人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ《平日コース》」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

記事:種山浩美(ライティング・ゼミ木曜コース)
 
 
「お父さん、病院で転んだの。帰って来れる?」と母からの電話。
 
1歳になった息子を連れてお盆に帰省したばかりだった。しかし「転んだ」という言葉にあまり深刻さを感じず、すぐに東京に戻るつもりで息子を夫に預け父の病院に駆けつけた。
 
実家があるのは福井県。父は余命三ヶ月と告知をうけて、末期ガンで入院していた。
前回の帰省から一ヶ月と間を空けず、しかもまだ小さい孫を預けてこさせてしまったことを気にしている様子の父だったが、「今日は泊まるよ」という私の言葉にまんざらでもない表情をみせた。
 
 
 
 
父は腕利きの大工だった。
宮大工に憧れていて腕もたったようで、大きな木造住宅を請け負っていた。建前に振舞われる赤飯や尾頭付きの鯛の入った豪勢な折箱をよく持ち帰った。その時の誇らしげな父は、私の憧れだった。
 
しかし一方で、父は人と合わせることが極端にできない性格だった。そのため少人数や、時には一人で請け負う仕事も多かった。
小柄な身体の彼には、体力勝負の大工の仕事は負担が大きかったのだろう。性格的にも体力的にもプレッシャーが大きかったのか、気に入らないことがあると途中で仕事を放り出して帰って来てしまうようなこともあったらしい。
また、夕食の時などにちょっとした事がきっかけで怒り始め、歯止めが利かなくなるようなことが度々あった。
そのとばっちりを受けるのは、大体は私。母には手を挙げたことを見たことがなかったし、妹はまだ小さかった。
 
怒って怒鳴り散らす父の鬼の形相が、子どもの私の心に深い傷を残した。
そんな父は大嫌いだった。
 
 
 
 
人生で初めての入院。人とうまく合わせられない父がどんな様子で闘病生活を送っていたのか、遠く離れて暮らしていた私はあまり知らなかった。
 
薬や病院が嫌いな父は仕事中に誤って骨まで達するような深い傷を負っても、自己流で熊の油なんかをつけて直してしまうようなことをしていた。
 
そんな父が病院で出される薬をおとなしく飲むはずもなく、こっそり枕の下に隠してしまうし、勝手に抜け出して映画を観に行くわとかなりの好き放題していたことを知った。
お盆に帰った時に、地元の映画館のメンバーズカードを自慢げに見せてくれた。新しそうなカードには4つスタンプが押されていた。
「おかあに言うなや」
一応は母に心配かけると思ったのか? それでも笑った顔は、まるでいたずらっこのようだった。
 
 
 
 
転んだ知らせをうけて一旦は家族と親戚が集まったが、容態が落ち着いているからと夕方にはみんな家に帰された。
その晩は、唯一の父の友人と私だけが残って付き添うことになった。
 
みんながいるうちは軽く話ができていた父だったが、徐々に眠ったままになった。そのうち苦しそうな息と立膝にした足が怠いと何度も組みかえ始めた。
 
細くなった父の白い脛。私は何時間もさすり続けた。
明日の朝 目を覚ますまで、ずっとさすっていてあげようと思っていた。
思い返せば、怪我をしても具合が悪くても弱音を吐かない父だったから、こんなふうにお世話をしたことがなかった。父が少しでも楽になるのなら、何時間でも、朝まででもこうしていたかった。
 
息が荒くて苦しそう。
それにしても、足に現れてきた赤紫の斑点はなんなのだろう。
 
 
 
 
「おねえさん、ちょっと頼みたいことがあるんだけど……」
父の入院中にとっても良くしてくださっていたという看護師だった。
 
「別に慌てなくていいんだけど、妹さんに来てもらうように電話してきてもらえる? ゆっくりでいいからね」
 
父の友人が
「僕が電話してくるから」と申し出てくれたのだが、何故だか私に電話をしろと言う。言われるままに部屋を出て、病院の公衆電話から妹に電話をした。
 
 
 
(早くおとうさんの所に戻らなきゃ……)
 
病室に戻ったとき
父の息がとまっていた。
 
 
 
 
何が起きたのか、さっぱり分からなかった。
父は呼吸をしていなかった。
しきりに組み替えていた足がもう動かない。
もう息をしていない。
さっきまで確かに生物だった父が、まるで物のようになっている。
 
バタバタと入ってきた医師と看護師達がなにやら測ったり父の身体に施していた。
「ご臨終です」という声が遠くから聞こえた気がした。
 
 
 
 
その後かなりの長い年月、その時のことを度々思い返した。
後悔と不信感。
ずっと傍についていたのに、最期を看取ってあげられなかったことが悔やまれてならなかった。父を恨んだことや傷つけられたことがあったとしても、やはりかけがえのない大切な存在だった。もっと一緒にいたかったし、もっと暖かい身体に触れていたかった。言葉も交わしていたかった。
 
そしてあの看護師。
あの時電話をかけに行かなければ、父をひとりで逝かせることはなかったのに、良くしてくれたと聞いてはいたが、どうしても不信感が拭えなかった。
 
 
 
 
~~人がこの世を去る時、愛する人を悲しませないよう姿を隠して最期を迎えることがある~~
 
こんな事が書かれていたのは、確かエリザベス・キュープラ・ロスの「死ぬ瞬間」だったと思う。
この言葉を見つけた時、衝撃が走った。
ようやくあの時のことが理解できたと思った。
 
 
その解釈を採用するなら、父は死の間際に苦みながらも『死』の事を全く考えずに足をさすり続ける私を置いて、旅立つことができずにいたのだ。
『父の生』に執着する私を置いて逝くことができず、ずっとずっと頑張ってくれていたのだろう。
 
そして看護師は、そんな父を見ていられなくてそっと私を離してくれたのだった。逆恨みされることを承知の上で。
黙って父を助けてくれた彼女に、感謝の気持ちでいっぱいになった。
あの時のことを思って泣いた。
 
 
 
 
一連の経験を経て……
いま私は、緩和ケア病棟で、闘病中の患者さんにアロマトリートメントをすることをライフワークにしている。
 
もしかしたらあの時の父を患者さんに投影しているのかもしれないし、辛かった自分を癒しているのかもしれない。けれど、患者さんとの関わりが私の人生を今とても豊かにしてくれている。
 
何度も何度も思い出し絶望したり恨んだりしながら、心に消えないシミのような痕跡を残したところで、それを覆す言葉に出会わせる絶妙のタイミング。
これは計算し尽くされた神の計らいのようにも思える。
しかしそれは、間違いなく父から私への大きな愛であり大切なギフトだった。
 
人は最期に、愛する人に大きなギフトを与えてくれるのです。

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2018-09-20 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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