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師弟を超えた、その先に


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

【10月開講】人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ《平日コース》」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

記事:イリーナ(ライティング・ゼミ平日コース)
 
先日、院生時代の恩師の佐藤先生(仮名)から、あるセミナーの講師を依頼された。
数年前から、年に1回、ほぼ毎年声をかけていただいている。
わざわざ東京から離れたところから呼ばなくても、私の代わりになるような講師はいくらでもいると思うが、修士課程修了後も、なにかと私のことを気にかけてくださって、
「たまには、東京に出張したいでしょ」
と、母校を訪れる機会を提供してくれる。
 
佐藤先生が、今のK大学に研究室を構えてから、最初の佐藤ゼミの学生が私だった。
今や大所帯となった佐藤ゼミも、当時は、私と博士課程の森本さん(仮名)しかいなかった。だから、ゼミの時間は先生と森本さんそして私の3人で、いつもお茶を飲みながらおしゃべりしていた。講義のたびに、私は先生の後ろについてまわって、準備のお手伝いや、学部生の出席や課題のチェックをしたりしていた。
先生は、母子家庭で育ち、アルバイトをしながら大学院に通学していた私のために、割りのいい講師の仕事を紹介してくれ、時には恋愛の悩みや家族の愚痴まで聞いてくれた。故郷の実母に対して、東京のお母さんみたいな存在だった。
 
しかし、関係が近くなればなるほど、そこから離れることは難しくなる。
実際の親子関係でも、旅立ちは時に痛みをともなうが、師弟関係となると、さらに複雑な思いが交錯する。
師である佐藤先生にとって、私は手塩にかけて育てた弟子であり、研究者の卵だ。
まずは研究者として自立させて、ゆくゆくは共同研究や発表をできればという期待もあっただろう。
また、弟子が業績をあげることは、師にとっても大きな功績であり、自慢でもある。
仮に、弟子が師よりも有名になったり、成果を挙げたとしても、師の存在はついてまわる。だからこそ、弟子の〝その後〟というのは、師にとっても大きな問題だ。
それは、どんな世界であっても、たぶん共通しているんじゃないかと思う。
 
でも、残念ながら、私は研究職にまったく関心がなかった。
今後の就職のために「修士」という学歴が欲しかっただけで、むしろやればやるほど、研究は自分に向いていないと、痛感するばかりだった。
だから、「短期間だけど、モスクワで働いてくれないか」と誘いがあったとき、私は何の迷いもなく休学することを考えたが、佐藤先生は渋い顔をして私をいさめた。
「論文というのはね、一気に集中して取り組まないとだめなのよ。途中で休学なんてしたら、修論書けなくなるわよ」
指導教官に見放されたら、論文なんて書けない。
先生の口調はおだやかだったが、はっきりと反対されたことで、私はすっかり落ち込んでしまった。
それまで、先生のアドバイスにはほぼ忠実に従ってきたように思う。
先生が反対しているのに、無理を通したことはなかった。
それに、先生の言うことはもっともだと感じてもいた。
ただでさえ、研究に対して意欲が薄いのに、ここで休んだりしたら、ますますやる気がなくなるだろう。仲の良い同期生たちより、1年遅れて修了することにも不安があった。
ある日のゼミ終了後、先輩の森本さんから声をかけられた。
「佐藤先生はああ言ってるけど、行きたかったら行った方がいいよ。そんなチャンスはめったにないんだから」
私の葛藤を察して、そっと背中を押してくれたのだ。
先生の性格を熟知している森本さんが賛成してくれたことで、私はようやく決断できた。
 
結局、モスクワで研究データの収集をするということで、先生も了承してくれた。
しかし、モスクワ行きを喜んで認めてくれなかったことは、私と佐藤先生の師弟関係に微妙な影を落とした。
少なくとも、私の中では、先生に対して何でも話そうという気がなくなった。
師は、弟子のチャレンジをいつだってあたたかく応援してくれるものだ。
やりたいことを、やらせてくれるはずだ。
そんな勝手な思いがあったが、そういうわけでもないのだと悟り、先生に反対されて自分の決断が鈍るくらいなら、何も話さないで進んでいこう、という気持ちになってしまった。
修士論文はなんとか書き上げたが、その後の進路について相談することはほとんどなかった。私は、再び海外と日本を行ったり来たりしていたが、時々事後報告しただけだった。
何年かたって、大学で研究を続けている同期生たちから
「佐藤先生、講義のたびにあなたの名前を出すんだよ。初めてのゼミ生だったって。あなたの論文のことも、いつも紹介しているよ」
と、何度も報告されて複雑な気持ちになった。
彼らにとって、私は佐藤先生の秘蔵っ子みたいに思われていた。
でも私は、先生の期待にはまったくこたえられなかった。
博士課程に進学しなかったし、再三の勧めにも応じず、雑誌に論文の投稿もしなかった。
まったく出来が悪い弟子だった。
だから、母校に行って佐藤先生と顔を合わせることを、長い間避けていた。
 
5年ほど前に、国際交流に関わる事業を展開している会社に入って、ようやく、胸を張って先生に連絡ができた。
研究職ではないけれど、これまでの経験を、先生の教えを活かせる仕事をしていますよ、と言えたからだ。
これからどんどん必要とされてくる分野の最前線で活動していることに、先生も喜んでくれ、講師として母校に呼んでくれるようになったのだ。
 
モスクワの一件以来、私は、佐藤先生を心も視野も狭い人だと思っていた。
ずっと大学で研究ばかりしていたから、大学院に入ったら研究を続けて、将来は教授になることが最も素晴らしい成功だと考えている。それ以外の選択肢は頭にない。だから、学生のいろんな可能性が見えていない。そう思ってしまっていた。
でも本当は、佐藤先生は誰よりも私の能力を評価してくれていたんじゃないかと思う。
だからこそ、研究を続けてほしいと願ってくれた。
それに、大学に就職することは、研究者にとって最も安定した道であることには違いない。
独身の私を案じて、ひとりで豊かに生きていける道を勧めてくれたのは、〝東京のお母さん〟としての親心に他ならない。いつだって本気で心配してくれていたのだ。
 
数年ぶりの母校は、とても静かで、穏やかな空気が流れていた。
でも佐藤先生の研究室は、あの頃と変わらず本や書類であふれていて、先生も相変わらずバタバタ忙しそうだった。
書籍の山に囲まれた丸イスに腰かけると、10年前と同じようにお茶とお菓子が出てきた。先生の部屋には、いつだっておいしい差し入れがあふれている。
ちょっと予想外だったけど、自分に合った職を見つけ、いまだにシングルだけど恋をし続けている私のことを、「元気そうね」と、やはり変わらない笑顔で迎えてくれた。
その笑顔に、何千人という学生の前で教鞭をとり、カウンセリングの専門家として何十年も学生の相談に対応してきた先生の、底知れない愛情と、心の広さを見た気がした。
 
佐藤先生は、もうすぐ定年を迎える。
定年後も、きっとあちこちからお呼びがかかるだろうけど、少しはゆっくりしてほしい。
大学構内を毎日何往復もする必要はなくなるだろうから。
 
先生、私は先生が望んでいたような道へは行かなかったけど、これから、先生が想像もしていなかった活躍をしますよ。
そして、そのときは「私の教え子なのよ」と大いに自慢してください。
わかり合えない時も見守ることの大切さ、いつかは理解しあえることを教えてくれたのは、あなたですから。
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2018-09-26 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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