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メディアグランプリ

学校の宿題とイスラム教の戒律


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事:本木晋平(ライティング・ゼミ平日コース)
 
「うちの子、本当宿題やらなくて困っているんです。すべてが中途半端。5ページ出されているのに2ページしかやらないとか。分からない問題は考えた形跡もないし。家でいつも、やれ、やれ、っていつも言っているんですけれどね。学習塾のお月謝のことを考えるとさらに怒りが。うち、高いところに通わせているから余計ですよ。テストの点数は、まあ、普通なんですけれど」
 鍼灸院に来られている、ある患者さんのお話である。お子さんは小学生中学年。
 大変だなあと思う。
 お子さんに。 
 同情してしまう。
 カミングアウトする必要もないので黙っていたけれど、わたしも小さいころ、まさにそのお子さんみたいな子どもだったから。
 小学生のころ、宿題が嫌で嫌でたまらなかった。
 先生のいじめだと思っていた。
 いじめは止めましょうと言っている先生は「いじめ」という言葉の意味を分かっていないのではないかと思っていたほどだった。
 自慢めいて恐縮だけれど、宿題をしなくてもテストはそこそこ点が取れた。
 その上、宿題をしているかどうかとテストの点数には関係がないらしいことに、ぼんやり気づいていた。宿題をまじめにするようになったのは中学に入ってからで、宿題をしないと本当にテストの点が取れなくなってきたからだ。
 必要性を感じないと、なかなか行動に移せない。何となれば、必要性を感じていても動かないこともある。
「どうして宿題をしないといけないんでしょうね? 宿題をしなくてもテストの点数はいいわけでしょう? やる必要ないではないですか?」
「言われてみればそうですね……今まで考えたことなかったです。宿題はやるものだと思って育ってきましたから」
 そのときは軽い気持ちで質問したわたしも、お母さんの治療が終わった後、しばらく考えていた。お母さんは鳩に豆鉄砲みたいな顔をして、しばらく考えていたけれど、なぜ宿題をしないといけないかについての答えを出せただろうか。 
 宿題について思いを巡らせているときに連想したのは、わたしがシステムエンジニアとして働いていたときに同僚だった、あるムスリム(イスラム教徒)の男性のことだ。
 ムスリムは一日5回、聖地のメッカの方角に向けて礼拝をすることになっている。ところが彼が礼拝しているのを見たことがない。初めは日本には堂々と礼拝する場所がなかなかないだろうからと同情していたのだけれど、一度そのことで質問すると、意外な答えが返ってきた。
「絶対に礼拝しなくてはいけない、というわけでも、ないんですよ」
「そうなんですか?」
 きょとんとしているわたしに、彼はこう続けた。
「それで天罰が下るわけでもありません。礼拝を一回スキップしたら収入が下がるわけでもありません。ただ神様に『ああ、この人は礼拝をしない人なんだな』と思われるだけです。豚肉だって食べてもいいんですよ。飛行機の機内食でとんかつを食べているムスリムもいます。『ああ、この人は食べてはいけないと言っているのにそれでも豚肉を食べる人なんだな』と神様に思われるだけで。でも四十くらいになってもあまりにいい加減に生活していると、周りのひとから信用されなくなるんです」
 なるほど、と感心したものだ。
 宿題も、イスラムの戒律のようなものではないか。
 「利害があろうとなかろうと、ともかくも約束はちゃんと守れるか」を試す、さらには約束を守れる人に育てていくのが、宿題を出す目的ではないのか。 
 内容や状況にもよるが、世の中で取り交わされる約束の大半は、少々破ったところで大きな問題にはならないのではないか。
 待ち合わせの場所に3分遅れたとか、少額の商品代金の口座振込が予定より3日遅れたからといって、すぐに困るものでもない。
 けれども、そうした不義理を繰り返すうち、「あの人は待ち合わせの時刻に来たためしがない」「あの取引先は金払いが悪い」と信用をなくしていく。そしてこれは重要なことだけれど、約束を破られた側は、「破った約束の内容」よりも「約束を破った行為そのもの」を気にする。
 言い換えると、時間やお金以外のことであっても、約束を破った人は信じてもらえなくなってしまうということだ。
「いっぱしのことを言う前に時刻どおりにちゃんと来い」
「貸した金をきちんと返してから意見していただけますか」
と思われてしまうのだ。
 大人になると本当によく分かる。生きていてつらいのは、お金がないことではなく、誰からも信じてもらえないことなのだ。お金がないということだって、信用してもらえていないことの一つの結果かもしれない。
 学校の宿題の場合、教師から生徒へ一方的に約束を「押し付ける」形になっているので厳密には「約束」というより「指示」と言うべきかもしれない。でも、そのへんは、どちらでも構わない。
 宿題を次の授業までにきちんとこなすのは、「守らなくてもいい約束でも、約束は約束です、約束した以上はきちんと守ります」という信用形成のトレーニング、「他人から信じてもらえる大人」になるためのレッスンの一つではないかと思う。
ところで、その「他人から信じてもらえる大人」になるための貴重な訓練であった宿題をすっぽかし続けてきたわたしは、他人さまからちゃんと信じてもらえているのだろうか? 
 実を言うと、この文章を書きながらだんだん不安になってきている。
 泥縄かもしれないけれど、ライティングゼミの課題は提出期限までにきちんと出そうと思う。罪滅ぼしに。
 
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2018-11-17 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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