女優の卵、なっちゃんが見せてくれた光に導かれて
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
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記事:江原あんず(ライティング・ゼミ日曜コース)
「まもなく、開演いたします」
アナウンスが流れた下北沢にある小さな劇場で、私はじんわりと手のひらに汗をかきながら、幕が上がるのを待っていた。なっちゃんが踏む初舞台……、彼女の夢がまた1つ叶っていく瞬間が、あと数秒でやってくると思うと、私まで緊張し、胃がきゅんと痛む。
次の瞬間、会場が真っ暗になり、静けさが広がる。そして、ステージにスポットライトが当たり、キャストたちが登場した。悪役を演じるなっちゃんは、ツルツルの生地をした黒いスーツをきて、青いアイシャドウと濃いリップで決め込み、凛と立っていた。
「なっちゃん!」
私は心の中で叫んだ。
ここまで、とても頑張ってきたのね。
なっちゃんとは、元、隣人である。私が25歳くらいの時、OL生活にも慣れて、だらだらと気ままに暮らしていた世田谷の小さなアパートで、彼女はとなりに引っ越してきた。当時、まだ大学生だったなっちゃんが、律儀に引っ越しの挨拶にきてくれたおかげで、私たちは友達になった。
「神戸から引っ越して来た、なつみです。よろしくお願いします!」
関西のイントネーションにのって弾む声、ちょこんとお団子にされた前髪と涼しいおでこ、子犬のようなクリクリとした目、そして華奢な体は、まだ少女のようだった。けれど、なっちゃんは、可愛い顔して肝の据わったやつで、親の反対を押し切り、女優になる夢を追いかけて上京してきたという。私はそのピュアな魂が、都会の悪いものたちで汚されないことを全力で祈りながら
「何かあれば、いつでも頼ってね」
と、お姉さんぶって言った。
「えー、何それ、めっちゃ心強いわぁ!」
初対面なのに、なっちゃんはまっすぐ私の胸に飛び込んできて、ハグをくれた。
そして次の日、早速、チャイムが鳴った。
「やばい、なつの家、IHが壊れてる! 火がつかへん」
ドアを開けると、困り顔のなっちゃんが立っていた。どれどれ、と彼女の家まで行って、台所に入る。
「フライパン買うとき、IH対応か確認した?」
そう言って、私が使っているIH対応のフライパンを置いてみると、あっという間にパンは熱くなった。
「ズコーーー! 壊れてないなぁ!」
なっちゃんはお笑い芸人みたいにズッコケて、けらけらと笑った。
フライパンを購入した近所のお店を教えてあげると、次の日またチャイムが鳴った。
「おそろやで!」
ドアを開けると、フライパンをもって小おどりをするなっちゃんの姿があり、今度は私が、けらけらと笑った。
こんな殺伐とした東京で、隣人と仲良くなるなんて夢にも思わなかった。全部、なっちゃんの人懐っこさのせいだ。
まんまと、私はなっちゃんのファン第1号になってしまった。演技のレッスンで毎日帰りが遅い彼女のために、代わりに宅急便を受け取ったり、夕飯を作ったり、それは一途で献身的なファンだったと思う。
「女優の肌には、野菜多めがいいかな」などと考えながら作った手料理を、お腹をすかせて帰ってくるなっちゃんは、おいしい! と連呼して、ペロリと食べた。そして食後には、半額シールがついたコンビニのロールケーキを2人でわけあいながら、紅茶を入れて、なっちゃんの話を聞いた。エキストラのバイトで憧れの有村架純に会ったこと、レッスンでこっぴどく怒られたこと、オーディションにまた落ちたこと、それでもやっぱり演じることが好きだから、女優になりたいということ……。なっちゃんの言葉には、いつだって強い意思が宿っていた。
「じゃあ、明日はダンスのオーディションあるから、これから自主練するわ!」
夕食が終わると、なっちゃんは自分の家に戻っていく。そして、その数秒後、ズン、ズンと隣の部屋からステップを踏む音が聞こえてくる。壁に耳を当てると、ワンツー! ワンツー! という、小さく軽快にリズムを刻む声が聞こえてきて、私は壁にもたれながら、「あいつ、かわいいなぁ」とお腹を抱えて笑った。
なっちゃんのひたむきで一生懸命な姿は、むきたてのグレープフルーツの果実を彷彿させた。彼女が持つ、みずみずしい若さと、まぶしいほどの未来を信じる力が、20代も半ばになり、よく言えば安定、悪く言えばいろんなことを諦めかけて、カラカラに乾いていた私の生活を潤した。一生懸命に何かを頑張る、ということをすっかりと忘れていた私は、少しバツが悪く、苦くて酸っぱいような……、でも希望が芽生えて、甘くて嬉しいような、そんな気持ちを抱えながら、なっちゃんの熱が、自分の心へ浸透していくのを、静かに見届けていた。
「なっちゃん、私も頑張ってみようかな」
そして、壁の向こうで踊る彼女にひっそりと誓い、私は昔からやりたいと思っていた書くことを始めた。いつか、私が書いた話を、なっちゃんに演じてもらう、という壮大な夢もこっそりと、こしらえて。
それから3年が経った今、私たちは別々の場所に住んでいる。昔のように密な関係ではないけれど、なっちゃんは私のことを「東京の姉」と慕ってくれ、先日、舞台の出演が決まったから見にきてほしいと連絡をくれた。
そして迎えた、舞台初日。
なっちゃんは、相変わらず華奢な体から、溢れんばかりのエネルギーを放出し、表現していた。自分のセリフがないところでも、繊細に表情を変えて、与えられたキャラクターと、ひと時も離れることなく、ぴったりとシンクロしていたのだった。
目の前で繰り広げられる光景は、大女優になる夢と、厳しい現実の狭間で必死にもがきながら、なっちゃんが紡いできた奇跡なんだろう……、そう思ったら、コメディの舞台なのに、泣けてきてしまった。
舞台は順調に進み、見事に90分間を演じきったなっちゃんは、すがすがしい顔で、最後の挨拶に登場した。鳴り止まない拍手の中、深くこうべを垂れたなっちゃんの姿は、一段と輝きを放っていた。それは、若さとか希望とかは、たぶんまったく関係のない種類の、自分の可能性を信じて、一生懸命に頑張った人だけがまとっている光だった。
なんて、いいものを見せてもらったのだろう。
ネオンに照らされた下北沢の商店街を、私は姿勢を良く、闊歩した。
早く、うちに帰ろう。うちには、書きかけの、諦めかけそうになった新人コンクールへ出す原稿が待っている。私の書いた話を、いつかなっちゃんに演じてもらうという壮大な夢だって、息をして待っている。なっちゃんの見せてくれた光に導かれ、書いていこう。
ドン、ドン……。私に眠る、まだ頑張れる力を目覚めさせるみたいに、いつかのなっちゃんがダンスを練習する音が、頭の奥でこだましていた。
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