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メディアグランプリ

バスの中で受けた、人生の授業

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*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

【4月開講】人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ《日曜コース》」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

記事:江原あんず(ライティング・ゼミ 日曜コース)
 
「迷惑になるでしょう! やめなさい!」
ピシッ!
からりと晴れた日曜日、浅草へ向かう穏やかなバスの後部座席で、窓から差す光にまどろみそうになりながら、スマホで歯医者の予約をしていると、誰かがひっぱたかれる音がして、私は瞬間的に顔を上げた。
その音は、私の前の2人掛けの座から聞こえたもので、音の先には、長い髪を1つに束ね、黒ぶち眼鏡をかけた化粧っけのない母親が、2歳くらいの小さな女の子をものすごい形相でにらんでいる光景が広がっていた。
いったい、何があったのだろう。日曜だし、外は晴れているし、まぁそんなに怒らなくてもいいのになぁ……。
眠い頭の隅で、そんなことを思いながら、私はまたスマホの中に戻り、歯医者の予約を進めた。
 
「ねぇ、やめなさいってば」
再度、イラつく母親の声が聞こえてきた。
前の座席をのぞいてみると、女の子の落ち着きのない足が見えた。どうやら、その子は地面に届かない自分の足が面白くて、足をぶらぶらと遊ばせているようだった。自由奔放に動く小さな足が、前の座席の背をリズムよく蹴ったり、通路に立つ人にぶつかりそうな勢いでスイングしたりするたび、母親の感情を逆なでしていた。
それでも、2歳の好奇心は止まることを知らない。女の子は、母親の目を盗み、足のバタバタを続けた。
 
「もう! いい加減にしなさい!」
ピシャ!
数分後、母親の手のひらが、娘のふくらはぎを思いっきり打つ音と、ヒステリックな声が混ざって、車内の一部の空気が、ピリリと凍った。
母親は肩で息をしていて、怒って真っ赤になった顔を、ずりおちたメガネがかろうじてカモフラージュしていた。女の子も、今度ばかりはさすがに母親の怒りを認識したようで、唇をきゅっと一直線に結び、大きな二重の目で母親を見つめたまま、固まっている。
 
こんな景色の延長上に、ニュースで見るような、虐待の悲劇は起こってしまうのだろうか。
けれど、たとえこれが虐待の始まりだったとしても、ちっぽけな私に何ができるんだろう。
漢方を飲んだ後みたいな苦みが、口の中に広がっていった。
 
「大丈夫よ」
次の瞬間、通路に立っていた50代後半くらいの婦人が、唐突に口を開いた。
 
「子どもって、言うこと聞かないから、大変よね。でも、あなたも私も、みんな子どもだったことはある。子どもの先輩。だから、子どもが自由に行動するとき、悪気がないことも、あなたが迷惑かけないようにがんばっていることも、ここにいる人は、きっとわかってる」
婦人は、まるで小さな子どもに話しかけるように、優しく語りかけた。
 
すると、母親は、はっと我に返った様子で、娘の足をひっぱたいた手に、反対側の手を重ね、叩いてしまったことを取り返すような仕草を見せた。顔の赤みがすっと消え、キッとつり上がっていた目も、怒りから解放され、冷静さを取り戻していった。
 
婦人の言葉は、まるで、さし水のようだった。パスタを茹でていて、お湯が吹きこぼれそうになったときに入れる、コップ1杯の水。タネも仕掛けもない、ただの水なのに、それを入れることで、グツグツと煮えていたお湯が嘘のように、さっと鎮まる、あの水。
 
婦人の言葉に続いて、女の子が何度か足で蹴ったと思われる前の席に座っていた、角刈りの高校生が、くるりと振りむいて白い歯をニッとのぞかせて言った。
「自分も、大丈夫っすよ」
 
「……ありがとうございます」
母親は、消えそうな声で、婦人と高校生にお礼を言い、鼻をすすりはじめた。
 
婦人が、カバンからティッシュを取り出し、母親に渡す。
「うっ……、すみません」
母親は、涙で顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。突然の台風に、マンホールの蓋が外れて水が溢れ出すみたいに、子育てをする中で彼女の中に蓄積されたさまざまな思いが、思いがけない他人の優しい言葉が引き金となり、氾濫してしまったのだろう。
 
「うん、うん、泣きたいときは、泣けばいいわ」
婦人は母親の肩をさすった。
 
そして、母親が泣き止んだ頃、
「お母さん、よく頑張ってる! でも、頑張りすぎないで」
そう言って、母親の肩をポンポンと叩くと、婦人は軽やかにバスを降りて、人混みへと消えていった。
 
残された母親と娘は、また2人の世界になり、その背中を寄り添わせていた。
「ママ、泣いてるのぉ? なみだ、とんでけぇーだよ」
「ママ、叩いたりして、よくなかったね。ごめんね。あーちゃんの好きな、チョコのアイス買って帰ろうか」
やがて、彼らの目的地にバスがついた。手を繋いでバスを降りていく2人のかわいいシルエットを見て、「この親子に、虐待なんて言葉は似合わない、きっと大丈夫だ」と私は安堵した。
 
静かになったバスの中、 窓ガラス越しに日光浴をしながら、私は目の前で行われた人生の授業を思い返していた。
きっと、あのお母さんはとても真面目な人だったから、ちゃんと娘をしつけようと、一生懸命でピュアな思いを持っていた。でも、それは、1人で闘う中、いつしか熱が入りすぎて、本人も気づかないうちに、沸騰していたのだ。
 
そんな熱を帯びた母親の心に注がれたのは、さし水みたいな、婦人の言葉。家族でも友達でもない、ただの他人が発した、ちょっぴり無責任な、でもよく効く「大丈夫」は、母親が1人ヒートアップしていき、自己コントロールを失うことを防いだ。
 
専門知識のない私たちが、虐待の問題に向き合うこと、それは簡単なことではない。でも、不幸のはじまりとなる、吹きこぼれそうな誰かの思いに気づいたときには、婦人が目の前で見せてくれたみたいに、さし水の一言を注ぐ、そんなことを重ねていけたら、個人レベルで、誰かの心の平和に貢献できるのかもしれない……。そんな気づきが、外の天気と同じくらい、私の気持ちを明るくしていった。
 
サーモグラフィーみたいに、心の温度を見ることができたらいいのだけれど、私たちは服を着こんで隠している。だからこそ、まずは、誰かの吹きこぼれそうな思いに気づくことができるよう、顔をあげよう。私はスマホをカバンにしまい、車内を見渡した。
 
すると、優先席に座っている優しそうなおじいさんと目が合った。私が微笑みかけると、銀歯の見える満面の笑みが返ってきて、それは、酸いも甘いも知っている人生の大先輩の「うん、その方向で間違ってないよ」という、私へのエールに思えた。
 
*** この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加いただいたお客様に書いていただいております。 「ライティング・ゼミ」のメンバーになり直近のイベントに参加していただけると、記事を寄稿していただき、WEB天狼院編集部のOKが出ればWEB天狼院の記事として掲載することができます。 http://tenro-in.com/zemi/70172

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2019-03-14 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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