メディアグランプリ

ピッチャー、25年目の休憩時間


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記事:井村ゆうこ(ライティング・ゼミ平日コース)
 
 
「もしかして、また旅行、キャンセルしなくちゃダメってこと?」
 
平成から令和へ。改元により、10連休となった、ゴールデンウィークが明けた、翌日。
一家の台所をあずかる主婦に課された、「3食×10日」という、ヘビーな仕事が終わり、ほっとしたのも束の間、夫がヘビーな話を、会社から持ち帰ってきた。
 
「会社が、支店の統廃合をすることになった。今、働いてる店は、9月でなくなる。次、どの支店へ行くかは、まだわからない」
 
このご時世だ。会社の方針は時代の流れで、避けられないと理解できた。
「異動先によっては、また引越しか」と思うと、正直気が重かった。加えて、夫の付け足したセリフが、私のこころに、さざ波を立てた。
 
「これから、9月まではバタバタすると思う。6月の旅行だけど……」
 
「もしかして、また旅行、キャンセルしなくちゃダメってこと?」
 
夫と結婚して、10年余り。これまでも、仕事の都合で、直前に旅行をキャンセルしたことが、何度かあった。その度に、「仕方がない」と自分を納得させてきた。夫の休暇に合わせて、自分の仕事の休みを調整し、綿密に計画した旅行であっても、最後は「仕方がない」のひと言で、済ませてきた。
 
しかし、今回は簡単に「仕方がない」で済ませられない、済ませたくない、理由があった。
夫の勤続25年を記念して、計画した旅行だったのだ。
 
大学卒業後、夫はずっと同じ会社で、営業職として働いてきた。結婚退職するまで、同じ仕事をしていた私は、夫の25年のサラリーマン生活が、決して平坦なものではなかったことを、知っている。
真夏に、汗だくになって自転車で走り回った、新人時代。厳しい上司と、気難しい顧客に挟まれて、夜遅くまで残業した日々。平成生まれの若手社員との、コミュニケーション方法に悩む、中間管理職の現在。その間、転職を考えたことも、一度ならず、あった。
 
今年の1月4日。仕事始めの日に、勤続25年を表彰され、渡されたのが、賞状と旅行券だった。
その日の夜、ソファに座って、じっと賞状を眺めていた夫の姿を、私は一生忘れないだろう。よろこびや充足感だけではない、もっと、もっと多くの感情が、胸を占めているような、そんな表情をしていた。
 
旅行券には、使用にあたって、様々な制約があったため、夫と私、5歳の娘の3人で使うには、6月上旬しか選択肢がなかった。このチャンスを逃すと、次はない。
また旅行をキャンセルしなければいけないのか、という私の問いに対する、夫の答えには、諦めがにじんでいた。
 
「何とも言えない。会社の判断だから」
 
夫は、元野球少年。小学生から、ひじを痛めてやめる高校生まで、ずっとピッチャーをやっていた。
サラリーマンとして働く夫をみていて、私は思う。夫は、社会というグラウンドで、球を投げ続けるピッチャーのようだと。そして、妻の私は、ピッチャーを支える「女房役」のキャッチャーだ。
 
試合開始直後は、やる気満々、闘志みなぎるピッチャーも、回を重ねるごとに疲れ、息が上がってくる。ヒットを打たれ、盗塁され、味方のエラーに天を仰ぐこともあるだろう。
そんな時、キャッチャーはどうしたらいいのか。球を受けるという、本来の仕事以外にも、ピッチャーに声をかけたり、タイムを請求してマウンドまで走り、くじけそうなピッチャーを励ますのも、大切な仕事のはずだ。
 
私は自問する。
夫が残業で疲れて帰ってきたとき、きちんと労っていただろうか。
仕事でトラブルを抱えていたとき、黙って、話を聞いてやっていただろうか。
問題解決に奔走しているとき、やり場のないストレスを軽くする、手助けができていただろうか。
 
情けないが、答えは「否」だ。
ピッチャーの投げる球が、速さとコントロールを失っているのに気づかず、そのまま投げ続けさせた。
ノーアウト満塁の場面でも、マスクをとって、ピッチャーの元へ、励ましに行かなかった。
喧嘩しては、グラスを投げつけて粉々にし、一ヶ月以上口を利かず、挙句の果てには家出までして、足を引っ張ってきた。完全に、キャッチャー失格である。
 
勤続25年を迎えた今、試合は後半戦に入っている。
支店の統廃合という社の方針は、ピッチャーである夫に、他の投手との交代を要求するかもしれない。投手から野手への転向を、迫るかもしれない。厳しいが、それがサラリーマンの世界だ。
 
では、キャッチャーであるところの、私はどうすればいいのだろうか。
夫がどのポジションになろうと、ベンチに下がろうと、私にできることは、キャッチャーを続けていくことだけだ。夫だけのキャッチャーを。夫の女房は、私だけなのだから。
 
大丈夫。夫よりは若いし、今までサボっていた分、体力気力を温存させてもらっている。
大丈夫。子ども産み、育てている手のひらは、どんな球でもミットなしで受け止められるくらい、分厚く頑丈になっている。
大丈夫、大丈夫。合格点ではなかったが、経験を積んだ分、少しは以前より上手に「女房役」を務められるはずだ。
 
だけど、ちょっとお疲れ気味なのは、ピッチャーもキャッチャーも同じ。
夫も私も、ルーキーじゃない、もう立派な中堅選手だ。この辺で休憩を要求しても、罰は当たらないだろう。一旦試合のことは忘れ、球場から遠く離れた場所で、しばらくの間、ユニフォームを脱ぎ捨てたって、登録を抹消されたりは、しないはずだ。
今こそ、「働き方改革」のカードを、切るべきときではないのか。
 
6月。支店長の計らいで、予定通り休暇を取得することができた。
25年目の休憩時間。25年、マウンドに立ち続けた者にだけ与えられる、特別な時間。
 
バリ島の青い空の下、水着姿で遊ぶ夫と娘を見て、思う。
きっと、夫はまた、投げ始めることができるだろう。まだまだ、投げ続けることができるだろう。
娘という、応援団長がいる限り。
 
さあ、休憩時間が終わったら……また、しまっていこう!
 
 
 
 

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2019-07-18 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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