メディアグランプリ

認知症になっても記憶の向こう側からの伝言


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事:三条実(ライティング・ゼミ平日コース)
 
 
医学的根拠は何もなく、書くのをためらっていたが、少しでも認知症の人を理解してもらえるようにという思いで書き始めることにした。
 
ここの施設は23区の山の手に位置し、緑豊かな木々に囲まれた公園に隣接している。
7階建ての大きな福祉の複合施設である。その中に特別養護老人ホーム、いわゆる「特養」と称する施設がある。
 
わたしは、専門学校の介護福祉科に学び、実習生として1ヵ月間実習することになった。
実習の目的は、無論、日々の介護の現場業務を実際に体験することである。
もう一つは学生として学校から課題を与えられてもいる。
実習のメインはこの課題の方であった。
 
「家に帰りたい」
 
93歳のSさんはつぶやいた。
個室の窓辺から窓外を見つめていた。
 
私はSさんをリビングから車いすに移乗介助をしてSさんの個室に移動してきた。
部屋に入りベッドで休んでもらうため、ベッドに移乗する介助の時であった。
 
木々を見下ろす薄曇りの窓外の彼方には大小さまざまな建物が見えている。
 
「私の家は向こうにあるの」
 
寂しげにつぶやき、涙ぐむSさんに、「おうちが向こうにあるのですね……」としか応答できなかった。
 
Sさんは普段から一人でいることが多かった。テレビは嫌いで番組にも興味関心を示さなかった。レクリエーションの時も輪には入っているが、車いすに座って下を向いている。職員が話しかける時だけうなずいたり、言葉少ないが返事をしてくれる。
 
Sさんが入居しているこの施設は、リビング兼食堂を中心にして取り囲むように10室の個室が配置されているユニット型である。このユニットには要介護4と要介護5の方が入所している。
 
個室にはベッド、クローゼット、テーブル、洗面台が置かれているワンルームである。
お互い会話をすることはまずない。
一日のスケジュールは決められている。
朝7時、各部屋に職員が起床をうながし始める。
 
カーテンを開ける。
おむつの排泄確認
おむつ交換
ベッドから車いすに移乗
口腔ケア
洗顔
整髪
パジャマから着替え
車いすでリビング兼食堂に移動
 
職員は各部屋を順番に回って介助していく。
 
8時朝食
噛む力や嚥下力に応じて、とろみ、刻み食、普通食と各人ごとに分かれている。
朝食後、口腔ケア、排泄介助
レクリエーション、リビングまたは部屋で自由時間となる。
 
12時30分昼食
13時30分入浴
自由時間
15時おやつ 水分補給
18時夕食
19時就寝準備
口腔ケア、パジャマに着替え、排泄介助
 
ざっとこんなスケジュールになっている。
 
Sさんは要介護5。記憶がかなり減退している。失語がある。
自力歩行はできず移動は車いす。
入所する前は戸建て住宅で独り暮らしをされていたが認知症がひどくなり入所。
家族はなし。(夫は死別、子はいない)
 
さて、実習生の私は課題にとりかからねばならない。
課題とは「介護過程」のこと。
教科書には「介護過程とは利用者が望むより良い生活、より良い人生を実現するために、どのような支援を行うか根拠に基づいて介護を実践し評価して、利用者の生活の質の向上につなげる」とある。
 
一人の入所者について「介護過程」を展開するために、10人の入所者からお一人を選ばなくてはいけない。
 
Sさんはいつも一人ぼっち。
昼食後、他の入所者は個室に戻るが、食堂で椅子に座っている。
うたた寝していることが多い。
実習生の私も業務が一段落する昼食後は手持ち無沙汰になる。
そんな時にSさんと話をする機会を持つことにした。
 
「ご趣味は何ですか?」「お好きな食べ物は?」「お生まれはどちらですか?」たわいのない質問をしながら、Sさんとの距離を縮めようと考えた。
 
失語があり、記憶もかなり薄れているために言葉は少ないが、少しずつ身内話も聴けるようになった。話の内容に感心してほめると恥ずかしそうに手のひらを左右に振りながら、めっそうもないという感じで答えていただけるようになった。
 
「Sさんを課題の人にしよう」
指導教員と施設管理者の許可を得て、Sさんの介護過程を始めることにした。
 
Sさんの課題を考えると、高齢者によくある喪失感が強く出ている。入所は自宅や家族からの離別。
肉体的機能の喪失。特に歩けなくなることは喪失感が強い。環境にも不適応している。
自己肯定感が極端に低くなっている。
 
介護目標をどうしようかと悩んでいた。
いつもどおり、ぽつりぽつりSさんと話をしている時だった。
 
「チャップリンを見たのよ、日本に来たのよ」
「デボラカーはきれいね」
 
80歳以上の年代の人は大概が美空ひばりの記憶が多い。
Sさんの記憶は洋画だった。
まさかの名前が出てくるとは。
 
翌日、洋画の雑誌を持参して写真を見てもらうと、なつかしそうに眺めていた。
タイトルは出なかったがよく洋画を観に行ったことが伝わってきた。
 
介護目標が決まった。
自己肯定感を高めたい。
短期目標「昔楽しんだ映画を観て楽しい日々を思い出す」こと。
 
どのようにして昔の洋画を観てもらうか。
今は便利なものがある。
YouTubeがある。
早速タブレットを使ってチャップリンのEatingMachineとモダンタイムスを観てもらった。
ときおり画面を指さしながら声を出して笑っていた。
試みは成功したようだ。
 
しかし映画で記憶が少し蘇ることを期待していたが、昔のことを語ってくれるまでには至らなかった。実習が終了して学校に戻ったが施設の方からSさんの行動に積極性が見られるようになったと伝えられた。
 
重度の認知症になると寝たきり、徘徊、物忘れ、暴言、幻覚、幻聴が発症するので
「人間が壊れる」というような表現をされる。
私は、命尽きるまで脳は死なないと思っている。どんなに認知症の症状が進んでも生きてきた記憶の一片は蘇る。言葉を発する機能が喪失して、第三者にうまく伝えることはできないとしても、本人には伝えたい、話しておきたいことがあると感じている。
 
楽しみだった洋画を観ることで、Sさんは記憶の一片を蘇らせた。多分、当時の出来事を言葉で伝えられないけれど、「こんなことがあったのよ」と心の中で語りかけていただいたと今でも思っている。
 
 
 
 
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2019-07-25 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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