週刊READING LIFE vol.58

「あなたのPd値の検査結果は?」《週刊READING LIFE Vol.58 「大人」のリアル》


記事:青木文子(天狼院公認ライター)
 
 

「おい、おまえ数値、どうだった?」
 
声をかけてきたのはとなりの部署の同期の神岡。岡田が手にした紙をのぞき込んでくる。神岡は同じ課長でとなりの課にいる男だ。同じ大学出身のつながりもあって、新人の頃から一緒に飲み歩いた、社内では数少ない、気の許せる友人のひとりだ。
 
会社での人間ドックの検査結果が配られた昼休み。岡田は休憩室でコーヒーを片手に検査結果の紙を見ていた。
 
「おれ、やっぱり酒、やめた方がいいかな~」
 
神岡が自分の検査結果をみながらそう嘆いていた。その横で岡田は自分の結果表をみてみた。コレステロールが少し高いぐらい。ざっと見た感じ判定結果は全体にAにぱらぱらBが混じっている。成績表なら悪くない眺めだ。
 
ひとつだけ気になる判定数値があった。今までにない判定だった。
 
岡田や神岡が勤めているのは製薬メーカー。製薬だけでなく人間ドックの検査方法の研究などでも国内では最大手と言われている会社だった。
 
1週間前、社内での人間ドックの前にいつもと違う説明があった。
 
「今期から新しい検査が入ります。血液検査の成分検査が追加になるだけなので、特別に何か検査が追加されるわけではありません」
 
「これは我が社の研究の一環です。この検査結果は匿名で研究に活用されますが、検査結果を公表したくない方は事前に申し出てください」
 
会社が検査結果を研究に使う。あまり気持ちが良いものではないが、宮仕えの身で「自分の検査結果は使わないでください」とはなかなか言えない。管理職ならなおさらだった。
 
「おい、おまえ、例の新しい検査のPd値ってみたか?」
 
神岡の言葉でふとわれに返った。
 
手元をみると、検査用紙の一番下に、「その他 Pd値」という項目が新しく付け加えられていた。基準値26ー45と書いてある。人間ドックの時に聞いた、担当看護師の説明がよみがえって来た。
 
「新しく検査に付け加えるのは血液検査で測定するPd値です」
 
「これはその人のなりたいことに向かう力を血中の成分によってはかるものです。夢を見る力の数値化と言って良いでしょう」
 
「現在の研究では、これはその人の成果を上げる能力ややりきる力と関連性が認められている数値です。PはPower、dはdreamの略です」
 
それを聞いたとき、岡田は鼻で笑った。夢を見る力? ばかばかしい。一体何の研究をしているか知らないが、そんな数値を測定して一体何になるんだ。その数値をあげる薬を開発して一攫千金でも狙うつもりか?
 
「おれ、Pd値が27だってさ。基準値26-45。これだったらぎりぎり正常ってこと?」
 
そう騒ぐ神岡の言葉を横目に見て、岡田も自分の数値を見てみた。
 
「Pd値 14」
 
数値がやけに低い。そしてその横には、それ以外の項目のA判定やB判定にならんで、一つだけC3とついていた。C3は経過観察1ヶ月後に再検査という意味だ。
 
「おまえさ、大丈夫か? 夢見る力がすくないってことじゃないの?」
 
めざとくその数値を見つけた神岡が同期の気安さでからかってきた。岡田は答えなかった。岡田は検査結果の紙を無造作に引き出しのファイルにしまった。こんな数値でなにがわかるっていうんだ。岡田の微妙な不機嫌さをみて神岡は肩をすくめた。
 
数日後、社内で定期的にある産業医の面談に岡田は呼び出された。
 
会社の医務室に行ってみると、顔なじみの産業医が白衣をきて腰掛けていた。部下のウツの休業や長期休業のときに何度かお世話になったのでよく知っていた。
 
「岡田さん、お久しぶりです。まあ、おかけになってください」
 
忙しいのに呼び出されている、という苛立った空気を隠すこともなく岡田は椅子に座った。
 
「先日の人間ドック、数値見られましたか?」
 
岡田は答えなかった。
 
「新しくできたあのPd値、岡田さんの数値がちょっと基準値から外れていたので、今回は特別に面談の時間を作らせていただいたんですよ」
 
産業医はどこまでもやわらかく言葉をつないだ。
 
「あのPd値というのは、最新の研究結果です。人が自分の未来に対して期待したり、将来の夢を見ることができる力を血中成分から数値化したものなんですよ」
 
岡田はまだ黙っていた。
 
「基本的に子どもたちはPd値の数値が高いです。大人になるにつれて、数値はどんどん低くなっていきます。まあ、それはわかる気がしますよね」
 
「この数値は大人になってから、その人が幸せを感じて生きているかどうかとかなり関連があることがわかりましてね」
 
産業医はいつの間にか立ち上がって、カーテンのそばから窓の外を見ていた。窓の外には秋晴れの青空が広がっていた。一筋の飛行機雲が、今まさにその筋をどんどん伸ばし、真っ白な一筋青空に描いているところだった。
 
「大人になっても、この数値を改善していくことができるんです。ただ、どうも……」
 
産業医は言葉をつづけた。
 
「ある組織で、Pd値が低い人が多かったのそうです。社員のPd数値を改善しようと、休憩時間を長くしたり、休暇の時に遊びに行けるように休暇手当をふやしたりしたらしいです。ところがそれでは数値はまったく改善しなかったというのですよ」
 
岡田がようやく産業医の方を向いた。それを機に産業医が椅子に座り直した。
 
「この数値を上げるには、本人が自分からやりたいことをやるしかないようなのです。つまりやらされ感とか、だれかに言われてというのは有効に機能しない。今わかっているのは、自分からやることが改善のきっかけになることだけです」
 
「再検査は3ヶ月後です。岡田さん、自分のやりたいことをこの3ヶ月やってみてはどうですか?」
 
その日も残業だった。
 
帰りの電車に揺られながら岡田は思った。
やりたいことをやるってなんだ。自分にとって仕事はやりたいことだ。それ以外にやりたいことなんてないさ。電車のドアの向こうには、いくつもビルが見えていた。ビルのいくつもの窓にモザイクのように光がともっていた。その光の下にいる人はやりたいことをやっているのだろうか。
 
帰宅してみると、リビングには頬を膨らました娘の美佳と、どうしていいかわからない妻が険悪な雰囲気を作り出していた。
 
参ったなあ。疲れて帰ってきたらこれか。これなら会社の方が楽だ。そう本音を言うわけにも行かず、話に割って入った。
 
「おいおい、一体どうしたっていうんだ」
 
頬を膨らましたままで、美佳がこちらに食いかかってきた。
 
「だから私は芸術系の学科に行きたいの。それが無理だとか、将来はどうするの、とか大人はそういうことばかりいうんだから」
 
ここまでの妻と美佳との言い争いを岡田は了解した。今まで何度も繰り返されている言い合いだった。妻は妻でこちらをにらんでいる。いつも言いたくないことを言う損な役回りは自分ばかり、とも言いたげだ。
 
ここは一つ大人の威厳で話をするかと、息を吸い込んだところで不意をつかれた。
 
「パパだって、昔は音楽をやりたかったんでしょ?」
 
吸い込んだ息が思わず止まった。
 
高校時代の自分が突然目の前に見えた。そうだ。やりたかった。音楽をやりたかった。高校時代もバンドを組んで。大学時代もバンドを組んで。でも就職のためにやめたのだ。
 
勢いをそがれて、岡田は言葉を失った。
それをごまかそうにも、どうごまかせばいいかわからなかった。
慌てて「先に風呂に入ってくる」と言ってその場を離れた。
 
いつもと違う様子の岡田をみて、心配そうに美佳と妻がこちらを見ていた。きっと仕事が忙しいのに違いない。美佳と妻はそれぞれに合点して、その日は岡田になにも言わずに過ぎていった。
 
岡田は布団に入ってから眠れなかった。
やりたいことなんかもうないと思っていた。今から取り戻すことなんてできないと思った。でも確かに、かつて自分はやりたいと思っていたことがあった。圧倒的な熱量でやりたいと思っていたことがあった。
 
まんじりともせず夜が更けていった。気がつくと朝になっていた。寝返りを打ちながらいつしか寝入っていたようだ。
 
その日の朝も、岡田は自分自身がぎこちないのがわかっていた。朝食のテーブルで、妻と美佳が、こちらをうかがうように眺めていた。なにかいつもの歯車が狂ってしまったようだった。
 
岡田は数日後、また医務室にいた。今度は自分で予約をとってやってきたのだった。
 
「どうしました、岡田さん」
 
いつものように勤務医がにこやかに迎え入れてくれた。
 
岡田は堰を切ったように話し始めた。
ここ数日自分がかつてやりたかったことを思い出したこと、そのときの苦しさを思い出したこと、それは誰のせいでもなく、自分がそれをやめたこと、そして諦めたこともなにもかも忘れてしまいたかったこと。親に迷惑をかけたくなくて、大きな企業に就職したこと。一気に話し終わると、岡田は絶句して言葉が途切れた。すこし涙ぐんでいるようだった。
 
勤務医はただただ、うなずいて聞いていた。
 
勤務医は立ち上がって窓を開けた。秋の爽やかな風がカーテンを揺らした。
 
「誰に聞いたのが忘れましたが」
 
と、前おきをおいて勤務医は話し始めた。
 
「夢って、ゼロかイチかではないということを聞いたことがあるんです」
 
「日本って、夢を叶えた、とか自分のゴールにたどり着いた、とかそういうことを賛美するじゃないですか」
 
「夢って、叶った、叶わなかったというゼロかイチではなくて、もっと豊かなグラデーションでいいってその人は言っていたんですよね」
 
「自分の夢にちかづくことを、毎日の中ですこしやってみる。それが楽しかったらもうすこし増やしてみる。夢を見るってそういうことで良いんじゃないかって思うんですよ」
 
ゼロかイチでなくていい。
 
岡田はすこし救われた気持ちになった。イチでない、ゼロの自分が慰められたような気がしたからだった。
 
岡田は帰りの電車の中でスマホを見ていた。偶然だろうか、必然だろうか、手の中のスマホに学生時代好きだったバンドの来日公演があるという情報が出ていた。驚いた。まだ現役でしかも日本公演をしているんだ。
 
チケットをみてびっくりした。思ったよりもずっと高い。でも飲み会を何回か我慢すればいいと自分に言い聞かせた。気がつけば勢いでチケットを申し込んでいた。
 
コンサートに出かける日。岡田は何を着ようかと迷っていた。
 
「パパ、若いじゃん」
 
珍しくジーンズをはいた岡田を美佳がからかった。
 
コンサート会場のとなりは広々とした公園だった。家族連れやカップルが芝生に腰を下ろしたり、水辺で小さな子どもたちが水遊びをしていた。
 
芝生にイーゼルを立てて、その風景を描いている高齢の人がいた。見事な筆運びに見とれて足を止めた。しばらくみていると、描いている人の方から声をかけてきた。
 
「いや、おはずかしい、60からの手習いで」
 
今はもう70歳だという。若い日に絵が好きでも、家が貧しくて働かざるを得ない境遇にあったと話した。
 
「好きなことをする時間というのはいいですね。今もこうやってキャンパスに向かって筆を動かしている時が一番幸せですよ」
 
「油絵って、後から色を足していけるんですよ。わたしはそれが好きでね。世界がどんどん深みを帯びていく感じがして」
 
ひとりで出かけたコンサートは思いがけず楽しかった。
ステージの上のかつてのスターも年老いてはいたが、その重ねた年輪と、そこにあらがうように歌うエネルギッシュな歌声が心に刺さった。周りには岡田と同じ年代の人が何人もいた。音楽がはじまれば、あっという間にあの時の空気に戻れる。岡田は夢中でその音楽を身体で受け止めていた。
 
コンサートの後に帰宅した岡田を迎えいれた妻は、いつもと岡田がすこし違うことに気がついた。そのあとバイトから帰ってきた美佳も同じことを感じたようだ。
 
いつもより冗談を言う。いつもより笑う。
 
なぜだかはわからない。でもそれは一緒に過ごす妻にとっても美佳にとってもうれしいことだった。
 
3ヶ月後。岡田の会社のデスクに小さな封筒が置かれていた。中をみるとPd値の再検査の結果だった。
 
「Pd値 30」
 
数値は基準値に入っていた。
 
その日岡田は家に帰ると、リビングに美佳を呼んだ。受験勉強中の美佳はめんどくさそうにリビングまできてテーブルの前に座った。
 
「おまえの好きな大学に行って良いぞ」
 
美佳は目を丸くして岡田を見た。夕食の片付けをしている妻は慌てて手を拭きながらこちらにやってきた。
 
「おまえの人生だ。ただ、授業料の相談はちゃんと事前にしてくれよ」
 
美佳は黙った。泣いているようだった。小さくありがとう、と言うのが聞こえた。そしてそのまま階段を駆け上がって自分の部屋に戻っていってしまった。妻は何かを言いたげだったが、黙っていた。岡田も黙っていた。
 
岡田は、今50歳を過ぎてようやく見えたものがある気がしていた。
 
人生は2度ないこと。やりたいことをやらなくても、その未来には誰も責任をとってくれないこと。そして夢はゼロかイチでなくてもいいということ。
 
そう考えると、やりたいことなど、仕事以外になにひとつないと思っていたのに、岡田はやりたいことがいくつも思い浮かぶのだった。
 
若さとは真っ白なキャンパスだ。そこに自由に絵を描く可能性が残されている。大人になるということは歳をとるということだ。歳をとるにつれ、キャンパスには、時に思い通りの、そして多くの場合、自分の思い通りではない絵が描かれていく。
 
それでも。その絵がもうほとんど描かれていても。キャンパスの白地の余白がもう少なくても。そのキャンパスに今から自分の筆で自分の好きな色を置くことができる。
 
岡田はあの油絵の筆運びを思い出した。どんな絵が描かれていて、そこに今から自分の好きな色を置けると思った。そしてそのことは岡田の中に小さな灯火をともしてくれるようだった。

 
 
 
 

◻︎ライタープロフィール
青木文子(あおきあやこ)(天狼院公認ライター)

愛知県生まれ、岐阜県在住。早稲田大学人間科学部卒業。大学時代は民俗学を専攻。民俗学の学びの中でフィールドワークの基礎を身に付ける。子どもを二人出産してから司法書士試験に挑戦。法学部出身でなく、下の子が0歳の時から4年の受験勉強を経て2008年司法書士試験合格。
人前で話すこと、伝えることが身上。「人が物語を語ること」の可能性を信じている。貫くテーマは「あなたの物語」。
天狼院書店ライティングゼミの受講をきっかけにライターになる。天狼院メディアグランプリ23rd season、28th season及び30th season総合優勝。雑誌『READING LIFE』公認ライター、天狼院公認ライター。/blockquote>
http://tenro-in.com/zemi/102023

 


2019-11-18 | Posted in 週刊READING LIFE vol.58

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