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週刊READING LIFE vol,120

数センチの幸運《週刊READING LIFE vol.120「後悔と反省」》


2021/03/22/公開
記事:西野順子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
今まで一度だけ救急車で病院に運ばれたことがある。
 
忘れもしない数年前のゴールデンウィーク直前の日曜日、私は家に帰ろうといつものようにバスに乗った。15人乗りぐらいの白い小型のバス。その日はちょっと混んでいて、空いていたのが一番後ろの座席たけだった。5人掛けの真ん中で、通路の突き当たりの席だ。そこに座り、ボーっと考え事をしていた。交差点に差し掛かった時に、突然バスの前を白い大きな鳥のようなものが横切った。キキッーと急ブレーキの音がした。
 
気がついた時、私はバスの前方の通路にうつぶせに倒れていた。 何が起こったのかわからない。 襟元のあたりがヒヤリとするので触ってみると真っ赤になった。 血だ。
 
頭の上から「気が付きはったわ」という声が聞こえる。
近くに座っていたおばさんが、「これを使って」と差し出してくれたハンドタオルで流れてくる血を拭ったら、タオルはみるみる真っ赤に染まった。
 
「何? これ?」
私は怪我をしたのか?
何が起こったんだろう?
 
頭はしびれたようだったが、痛さはあまり感じなかったし、不思議と怖いとも思わなかった。乗客みんなの視線が自分を見ているのを感じていた。
何か自分だけが別世界にいるようだ。

 

 

 

救急車のピーポーピーポーというサイレンの音が聞こえてきて、至近距離で止まった。
乗りこんできた救助隊員に、運転手さんが私を指差し、「この女性です」 と言っているのが聞こえる。
救急隊員は私に肩を貸し、「歩けますか」と聞いてくれた。
 
タオルを貸してくれたおばさんの「そのタオル持って行っていいからね」という声に、
「ありがとうございます」と答えるのがやっとだった。
 
何も分からないまま救急隊員に肩を借りて救急車に乗り込んだ。
私を乗せると、救急車は、またピーポーピーポーとサイレンの音を鳴らして走り出した。 
 
救急隊員の人は私の頭を包帯でぐるぐる巻きにした。
車内では、「これ見えますか?」「意識はありますか?」というようなことを聞かれ、しっかり答えたような気もするが、あまり覚えていない。 その場にいながら映画かなんかを見ているような、不思議な感じがしていた。
 
何が起こったのかを聞いたのは、バスの中だったか、救急車の中だったか?
 
なんでも、私の乗ったバスが交差点を直進しようとしたところに、白い車が横からいきなり信号無視で飛び出してきたので、バスの運転手がとっさに急ブレーキをかけた。他の人は前の座席がストッパーになって無事だったが、私が座っていた最後部の中央座席は、前に何もなかったために、急ブレーキの反動で私は前の通路に放り出され、バスの一番前まですっ飛んで、乗降口にある手すりに頭を打ちつけ、そのまま床に突っ伏したらしい。
私には飛ばされたときの記憶はないのだ。頭を打ったせいか、恐怖で記憶が飛んだのか?
 
少し落ち着いたので、車内をぐるりと見回す。救急隊員の一人が電話で病院に私の怪我の状態を説明しているようだ。電話を終えると、彼は私に今から行く病院の名前を教えてくれた。
 
はじめて救急車に乗ったので、キョロキョロあたりを見回してみる。車内というコンパクトな空間の中に、いろんな装置や、薬品や備品が コンビニの棚のように整然と詰められ、所狭しと並んでいる。
 
いろいろな病気や怪我の患者さんを運ばないといけないので、どんな場合でも応急処置ができるようにできているのだろう。
 
そうこうするうちに10分くらいでサイレンは鳴り止み、病院に着いた。

 

 

 

傷口のあたりは、ちょっとしびれたような感じがしたが痛くはなかった。お医者さんに診てもらったら、耳の後ろがかなり切れていたらしく、数針縫った。
 
お医者さんに傷についての説明を受けた。
「頭を打っているので1、2日は様子を見た方がいいので、 本当は一泊入院したほうがいいですね。入院しますか?」と聞かれ、そんなにたいそうな怪我なのかと驚いた。
何か起きたら怖いので、素直に「ハイ」と返事をする。
 
「それなら、今すぐ入院と言われても困るでしょうから、タクシーで家に帰って、夕食を済ませてから、夜に荷物持って帰ってきてください。お家には電話しましたか?」
 
家にいるのは母だけだ。高齢の母に交通事故にあって入院するといきなり言うと、ショックを受けるだろうと思ったが、恐る恐る電話した。
 
「お母さん、あのね、大丈夫だから心配しないで聞いてね。駅から家に帰るバスに乗っている時に、信号無視の車が飛び出してきて、バスが急ブレーキをかけたの。、乗っていた私は頭をぶつけて怪我して、救急車で病院に運ばれたんよ。大丈夫だとは思うけれども、念のために一泊入院した方がいいって先生が言うから、 今から家に帰って、夕食食べたらまた病院に戻るわ」と言った。
 
電話の向こうの母はさすがに驚いたようだったが、「夕食作っておくわ」と言ってくれた。

 

 

 

家に帰って、持って行く着替えなどを用意していると、父が帰ってきた。
「順子が交通事故にあって、入院する」と説明している母の声が聞こえる。
「何をしとるんや?あいつは。どうせ、ぼーっと歩いとったんやろ」と父が言っている。
まったく、お父さんらしい。
 
後で母に「どうせぼーっと歩いとったんやろ、はないよね」、と言ったら、
母は笑いながら言った。
「お父さんはあれで、心配してるんよ。 不器用だからそういう言い方になっちゃうんだけど。」
 
父は昔の人らしく感情をストレートに出さない。一見怖そうな顔をしているが、誰に対しても本当は優しくて、母や私がバスに乗り遅れて騒いでいると、「しょうがないやつやな」と言いながらも、車で駅まで送ってくれたりする。
私の感情表現が乏しいのも父に似たのかもしれない。

 

 

 

タクシーで病院へ行く。3歳の時に入院して以来、初めての入院だ。
私が入った部屋は6人部屋だった。大部屋にベッドが4つ並んでいて、1つ1つのベッドは、ぐるりとカーテンで囲われている。カーテンを閉めると外は見えないが、 部屋の音はかなりはっきり聞こえてくる。くるりとカーテンをめぐらし、蚕が繭に入っているみたいになって、持ってきた本を読む。
 
10時になったら電気が消えた。こんなに早く寝るなんて久しぶりだが、普段から宵っ張りなのでそう簡単には寝付けない。 ベッドに横たわって、真っ白い天井を眺めていたら、横のベッドに寝ている人が大きな声で誰かを呼んでいる。
 
「洋子さん、洋子さん、そこにいるの? 私ここよ」
びっくりして飛び起きた。
看護婦さんが来て、その人に話しかけている。その人はしばらくすると寝付いたようだった。
 
しばらくすると、ナースコールで呼ばれて、また看護婦さんが部屋に入ってきて、「トイレですか?」と患者さんに呼びかける。
 
なにか気になる、トイレに行きたい、など看護婦さんはこうやって夜中に何回も何回も呼ばれるのだ。大変なお仕事だなあ。いつも優しく対応している看護婦さんたち、ほんと天使みたいだと思った。
 
この病室には、大きな声で叫ぶ人もいれば、「うるさくて眠れない」とぼやいている声もする。毎晩こんな感じなんだろうか?真夜中の病室は昼間とは全然の別の顔をしている。心が休まる気がしなかった。

 

 

 

いつのまにか寝てしまい、ぐっすりと翌朝まで寝て起きたら7時ぐらいだった。 朝食を食べると、することがない。読みかけの小説の続きを読む。上橋菜穂子さんの「獣の奏者」という長編ファンタジー小説で、読んでいるとどんどん小説の中に引き込まれていく。読みすすめていると、登場人物の一人が頭を打って、車で運ばれている間に調子を崩して亡くなった、というシーンがあって、自分の姿と重なりちょっと怖くなった。
 
昼過ぎになって、 先生が診察に来てくれた。
経過は良好で、もう帰っていい、という話で、ほっと胸をなでおろした。
 
そこで、私は入院している間中、ずっと気になっていたことを、思い切って聞いてみた。
「あの、お聞きしたいことがあるんですか」
「はい、なんでしょう?」
「実は、ゴールデンウィークに海外旅行に行こうと思っているんですけれども、行っても大丈夫でしょうか?」
 
この日はゴールデンウィークの3日前。ゴールデンウィークに、私はドイツにお嫁に行った友人を訪ねて、一緒にドイツ国内を旅行する予定にしていた。
 
だから、昨日、入院手続きが済んで一旦落ち着いた時にまず考えたのが
「この頭の状態で、3日後に飛行機に乗れるのだろうか?
今キャンセルしたら、キャンセル料はどれぐらいになるんだろう?」
ということだったのだ。
 
まさか、こんなことを聞かれるとは思ってなかったのだろう。先生はさすがにビックリしたようで、「信じられん」 と言わんばかりの目でこちらを見たが、こう言ってくれた。
 
「ご本人が行きたければ行ってもいいですよ。推奨はしないですけれどもね。その辺は、ご自身での判断になります。でも、頭を打っているので、脳外科の先生にも相談するから、そのことは、明日こちらにいらした時にもう一度話しましょう」

 

 

 

そして翌日、脳外科の先生にも診察してもらったあと、旅行のことを話したら
 
「縫った糸を2週間放っておくのはあんまりよろしくはないけれど、いまさらやめれないでしょう。抜糸は帰ってきてからでいいですよ。
まあ脳は大丈夫だけど、縫ったところが万一万が一化膿したり傷んだりしたら、向こうですぐにお医者に行って下さいよ」
と言ってくれた。ほっとした。
 
そこで、もう一つ気になることを聞く。
「小説を読んでいたら、登場人物が頭を打って、自動車の揺れが原因で症状が悪化して亡くなった、というシーンがあったので怖くなったんです。
飛行機に乗って、気圧の変化で傷が開いたりとか、頭が痛くなるってありますかね?」
 
先生は笑いながらこう言った。
「飛行機に乗ったからといって影響はありませんよ」、
 
これを聞いて私の心は決まった。
行こう。
行かなかったら絶対に後悔する。
 
先生に 傷の手当ての方法を聞き、薬局で大きな絆創膏を大量に買い込み、家に帰って自分一人で耳の後ろに絆創膏を張る練習を何回も何回もした。耳の後ろは見えないだけに絆創膏を貼るのはなかなか厄介なのである。
やれやれ、これで準備ができた。

 

 

 

そして出発の日が来た。ワクワクしながら、そして大丈夫かな? という不安もちょっと持ちながら、フランクフルトへと向かう飛行機に乗った。幸いなことに、機内で傷が痛むこともなく、無事にフランクフルト到着。友人と何年ぶりかに再開した。
 
翌日はライン川下りをするため、コブレンツへ向かうq
両側に青々と広がるブドウ畑を眺めながら、ゆったりとした船旅を楽しみ、
途中の桟橋で降りて、川に面したレストランでランチを楽しむ。
もちろんお酒は、ライン川でできた白ワインだ。
 
フランクフルトへの帰りにマインツに行き、シャガールのステンドグラスで有名な聖シュテファン教会を訪れた。青の教会といわれるだけあって、教会の窓という窓は、シャガールの青のステンドグラスが埋め込まれ、ガラス越しに差し込む光が教会内を真っ青に満たしている。神秘的な美しさに息を呑んだ。
 
フランクフルトでも、美術館を訪ねたり、クラシックのコンサートを楽しんだりと、ドイツ旅行を堪能した。
 
やっぱり、来てよかった。

 

 

 

生きることは決めることだ。
私たちは、大小さまざまなことを日々何十個も決断している。
決断をするのは、一つを選び、残りの可能性を捨てることだ。
 
旅行に行くか行かないかは、私には大き目の決断だったが、
行くと決めたことで、行くためにはどうすればいいか、
行ってどう傷と付き合うかを一生懸命考えた。
 
友人とも何年かぶりに会え、とても楽しい時間を一緒に過ごした。
充実した一週間だった。
 
頭の傷はというと、
最初の2日間ほどは神経質に傷の手当てをし、
絆創膏もまめに貼りかえていた。
 
日が経つにつれてだんだんと手当が雑になったが、膿むこともなく、私が帰国するまで無事だった。そしてドイツから帰って二日後、抜糸もすんで私の頭は元通りになった。

 

 

 

しばらくたったある日、行きつけの整体院に言って、先生に交通事故とドイツ旅行の話をした。
 
整体の先生は、私の傷をしげしげと眺めたあと、こう言った。
「耳の後ろで本当に良かったですね。
数センチ下に頸動脈があるんです。
頸動脈を切ってたら一発でアウトでしたね」
 
「……」
すぅっと冷たい汗が流れた。
 
生きるか死ぬかは紙一重。朝お参りにいった氏神様が、もう少し頑張りな! と、当たりくじを残しておいてくれたのかもしれない、と心から感謝した。
 
私はそれ以来、バスに乗った時には、最後部の中央の席には絶対に座らない。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
西野順子READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

神戸出身。大手電機メーカーで人材開発、労務管理、採用、システム開発等に携わる。2019年に独立。仕事もプライベートも充実した豊かな生活を送りたい人のライフキャリアの実現を支援している。キャリア・コンサルタント、社会保険労務士、通訳案内士

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2021-03-22 | Posted in 週刊READING LIFE vol,120

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