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週刊READING LIFE Vol,95

逃げても逃げなくても道は険しい《週刊READING LIFE vol,95「逃げる。ということ」》


記事:篁五郎(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
2019年9月、プロレス界の盟主新日本プロレスの年商が約54億円に達したと親会社であるブシロードが発表した。この数字は1972年に団体を興して以来、過去最高でありプロレスがコンテンツになりえるというのを証明したことになる。
 
だが、プロレスは浮き沈みが激しい業界であった。敗戦して間もなく力道山がアメリカから持ち込んだときは日本テレビで全国放送されていたおかげで全国民に知られているほど認知度が高く、弟子のジャイアント馬場とアントニオ猪木も知らない人はいないと言われるほどの人気を誇り、馬場曰く
 
「給料袋が立った」
 
と言うほど選手にも多額のギャラが支払えるほどだった。力道山の死後、プロレス界は二団体制に突入する。ジャイアント馬場が創設した全日本プロレス、アントニオ猪木が興した新日本プロレスである。
 
新日本プロレスは力道山が作った日本プロレスを追放された猪木が自ら私財を投じておこした弱小団体だったのを選手と社員の努力によって全日本プロレスと肩を並べるどころか追い抜くほどにまで大きく成長した。
 
しかし、猪木の独善的な経営手法が問題となり多くの選手とスタッフが離脱をしてきた歴史がある。滑舌が悪いプロレスラーこと長州力や総合格闘技(打撃(パンチ、キック)、投げ技、固技(抑込技、関節技、絞め技)などの様々な攻撃法を駆使して勝敗を競う格闘技)に大きな影響を与えた前田日明もその一人である。
 
特に2002年3月に当時のエース・武藤敬司が期待の若手選手2人と幹部社員を引き連れて全日本プロレスへの移籍は新日本プロレスに大ダメージを与えた。
 
武藤は前年にアメリカから帰国するも創始者である猪木が総合格闘技に対抗するための路線を敷いていた。アメリカンプロレスを志向していた武藤と考えが合わず新日本プロレスの中で浮いた存在であった。そこで武藤が決断したのがアントニオ猪木から逃げること。
 
離脱するにも一人ではどうにもならないと考え、当時交流関係にあった全日本プロレスへ移籍を打診した。すると、社長である馬場元子(ジャイアント馬場夫人)が快く引き受けることとなり、猪木に不満を持っていたレスラーや社員に声をかけて移ったのだった。
 
移籍会見で武藤は高らかにこう宣言する。

 

 

 

プロレスLOVE

 

 

 

格闘技路線を歩む猪木への強烈なアンチテーゼであった。その言葉通り武藤は全日本プロレスで自ら志向したアメリカンプロレスを中心に格闘プロレスや同期の橋本真也が立ち上げたゼロワンとの対抗戦、ジャイアント馬場の弟子である三沢光晴が新たに作ったノアとの交流戦などファンにとって魅力的なカードを打ち出していった。
 
時には化身と呼ばれるグレートムタを呼び起こして悪役レスラーとして観客を楽しませ、新たなキャラクターも作り上げて、コンテンツとしてプロレスを盛り上げていったのだ。
 
その武藤に去られた新日本プロレスは窮地に追い込まれていた。猪木の格闘技路線により、当時大ブームを起こしていたPRIDEなどの総合格闘技へ所属レスラーが参戦させられたが、無残な敗戦を繰り返していた。
 
しかも打って出たレスラーはアマレスで全日本選手権優勝やオリンピック代表候補だった猛者ばかりにも関わらず出れば負けという戦績であった。当時は大きな批判を浴びたが、現在は負けて当たり前と言われている。
 
なぜなら総合格闘技とプロレスでは戦い方がまるで違うので出場するならば数カ月単位での準備が必要だった。しかし、猪木は10日や一週間前に参戦を命じるといった無茶をしたおかげでロクな調整もできずにリングに挙げられたのだ。
 
そういった状況を知らない当時のファンは新日本プロレスを見限り、総合格闘技へと足を向けた。
 
プロレス冬の時代である。
 
会場に行けば閑古鳥。タダ券をばら撒いても客は来ない。格闘技の聖地と呼ばれる後楽園ホールでも満員にならず客同士をソーシャルディスタンスどころか密にさせて観衆がいるように誤魔化すことが当たり前になった。

 

 

 

「このままではプロレスがヤバい」

 

 

 

そんな危機感を持っていたのが、100年に一人の逸材と言われる棚橋弘至である。当時の棚橋は若手選手の一人で団体の看板を背負うような位置にいなかった。先輩たちの厚い壁に立ち向かっていくも跳ね返されていた頃である。
 
「厚い壁を突破したときにはお客さんが誰もいないなんてことになりかねない」
 
そう考えて自分に何ができるのかを考えて動き始めたのだ。まず始めたのが見た目の変化。当時のプロレスラーは筋肉の上に脂肪を乗せているアンコ型と言われるのが主流だった。しかし棚橋はお客さんに鍛え上げた筋肉が伝わらないと思い、余計な脂肪を落としてシックスパックがはっきり見えるほど絞り上げた。ロン毛にエクステ、スキップにエアギター、試合後のキメ台詞は「愛してます」。
 
ファンサービスも欠かさない。
 
リングサイドの観客にハイタッチ。サイン会に来てくれたお客さんには必ずハグをし、何度も来ているファンの顔と名前を覚えた。しかも話した内容もメモをして記憶するほど地道な努力を積み重ねていった。営業から先乗りで次の試合会場の宣伝を頼まれればイヤな顔一つせずに同行し、現地のメディアやイベントに参加した。
 
そこで棚橋は一つの工夫をする。
 
「単にやってきて「プロレスの試合があるんで来てください」では誰の心にも残らない」
 
そう考えてメディアやイベントに出演するときは自分から一切プロレスの話をしなかったという。
 
「棚橋はこんな男なんです」
 
「ここはどんな名物がありますか?」
 
など場の空気になじむように努めた。
 
だが、棚橋のやり方は所謂プロレスマニアから反発を買う。なにかやるたびに「軽い」「強さが感じられない」「カッコだけ」と、ブーイングを浴びる存在にまでなってしまったのだ。
 
しかし棚橋はぶれない。
 
「“ストロングスタイル”(アントニオ猪木が作り上げたプロレススタイル)自体を否定はしません。ただ、その言葉一つで商売ができる時代は終わった。もはや神通力はないんです。だから、違う何かを見つけなければならなかったんです」
 
と語り、バラエティーや情報番組への出演しプロレス普及活動を続けた。
 
「プロレス人気を上げようとしたら、やはり知名度が大事。“知っている人”が試合に出ないと、なかなか会場まで試合を観に来てもらえません。猪木さんのときは、それがあった。当時は金曜日の午後8時からテレビ番組の放送がありましたし、プロレスを知らない人でも、猪木さんという存在は知っていた。確かに、プロレス人気は一時期に比べると上がってきているとは思いますけど、まだまだ頑張らないと」
 
そして、この状況をこう捉えていた。
 
「ただ、プロレスを知らない、観たことがないという人が多いというのは、逆にチャンスでもある。実際に試合を観てもらって、好きになってもらえる人が確率的にまだまだいるということですからね」
 
つまり自分がきっかけで会場に足を運んでもらいたいと考えたのだ。もちろん一朝一夕に成果が出るわけではない。数年間続けてきてようやく実を結んだのだ。満員になった大阪府立体育会館で先輩レスラーの中西学から勝利を収めた棚橋は思い切りプロレス愛を叫ぶ。
 
すると、大「棚橋」コールが鳴り響いた。最初に叫んだときはブーイングだったのが遂に変わったのだ。棚橋の努力は実を結ぶ。
 
その棚橋を若手時代に引き抜こうとしたのは新日本プロレスから離脱した武藤敬司である。当時付け人として武藤の世話をしていた棚橋にとっては師匠当然のレスラーであり、憧れの人だった。中学・高校時代は野球少年だった棚橋少年が弟と共にテレビのプロレス中継を観るようになり、その楽しさにどっぷりはまっていく。そこで出会ったのが武藤敬司である。武藤に憧れて新日本プロレスに入門をしたのだ。
 
その武藤の付き人となり日々、共にしたトレーニングの中で「自分なりの戦い方を探るきっかけ」をくれた恩人でもある。
 
しかし、棚橋は武藤の誘いを断り新日本プロレスに残留。創始者アントニオ猪木の前で
 
「俺は新日本プロレスでプロレスをやります!」
 
と吠えた。言葉通り猪木の路線には乗らずにずっとプロレスを守ってきたのだった。
 
そして、2009年に師弟が日本プロレス界最高のイベントで相まみえることとなる。新日本プロレスの東京ドーム大会で団体の象徴IWGPヘビー級のベルトをかけて武藤敬司と棚橋弘至が戦うこととなったのだ。
 
しかも武藤は他団体からやってきた外敵としてベルトを奪い、新日本プロレスの選手を軒並み倒して防衛を重ねていた強敵。これ以上負けるようなら新日本プロレスの威信にかかわるほど追い込まれていた。
 
そんな状況でも棚橋の心は折れることはなかった。
 
「あのときと比べたら屁でもない。満員のお客さんの前でメインが張れるんだ」
 
そう考えた棚橋はいつも通りの試合をして師匠を超えた。見事ベルト奪還。新日本プロレスの最後の砦として団体の名誉を守った。
 
試合後、武藤は「駅伝のレースじゃないけど、この区間は俺、一生懸命走ったから。後はタスキを棚橋に渡す訳であって。プロレスなんて第三者も必要だけど、自分の気持ちが重要であって、この区間は俺が“区間賞”、レコードを取ったと勝手に自分で思ってるけどな。後は、それを棚橋なりが引き継いでくれれば」と語り、プロレス界を引っ張る存在としてバトンを渡した。
 
新日本プロレスから逃げて更なる成功を収めた武藤敬司。新日本プロレスから逃げずに復興させた棚橋弘至。どちらの道も険しかったはずだ。
 
だからこそ「逃げる」が正解でもないし、「逃げない」のが正しいわけでない。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
篁五郎(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

初代タイガーマスクをテレビで見て以来プロレスにはまって35年。新日本プロレスを中心に現地観戦も多数。アントニオ猪木や長州力、前田日明の引退試合も現地で目撃。普段もプロレス会場で買ったTシャツを身にまとって都内に仕事で通うほどのファンで愛読書は鈴木みのるの「ギラギラ幸福論」。現在は、天狼院書店のライダーズ俱楽部でライティング学びつつフリーライターとして日々を過ごす。

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2020-09-07 | Posted in 週刊READING LIFE Vol,95

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