席を譲るか譲らないか問題
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
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記事:高田 麻由(ライティング・ゼミ平日コース)
「席どうぞ」
たった、その一言が言えなかった。
混雑した電車の車内。私はドアに近い一番端の席に座っていた。電車はできれば端の席に座りたい。隣の人の肩に寄りかかることなく、手すりに寄りかかってぐっすり眠ることができるからだ。
そんなベストポジションをキープして、うとうとしていたが、ふと目が覚めて顔を上げると、右斜め前にチラリ、と、「高齢かな?」と思われる女性が視界に入ってきた。その瞬間、なぜだか身体が勝手に反応し、視線をまた膝に落とし目を閉じた。
目を閉じ、ふたたびウトウトしようとしたが……することはできなかった。
「席、譲った方がいいかな」
「いや、でも、ここで譲ると後1時間立っていなきゃいけないし……私も疲れているし……」
「せっかくキープできた端っこの席だったし……」
「なんかもう今更だし……」
どれくらい、この気持ちと格闘しただろうか。もはや眠気などは全くなく、思考がグルグルグルグルと渦巻いている。世界が止まり、その「声をかける」「声をかけない」その二文字が目の前に何度も現れる。
そうやって眠ったふりをして数駅経ってしまっただろうか。プシューっとドアが開いて人が動き、その女性が私の右横を通過していくのがわかった。うっすら目をあけたその時、目に入ってきたのは、彼女のシワシワの右手だった。日焼けをしたような浅黒く厚みのある肌に深いシワがたくさん入ったシミだらけの手。
ああ……
その瞬間、私はものすごく後悔した。あの手は、長い時間、一所懸命働いてきた手。普段は農作業をしているのかもしれない。田舎から、時間をかけてここまで出てきたのかもしれない。お年寄りにとったらこの混雑した電車で立っていることはどれだけ大変なことだろう。
なぜだか、母を思いだしていた。
「譲ればよかった……
譲ればよかった……
譲ればよかった……」
一日中、何をしていても、私はずっとそのなんとも苦い気持ちにとらわれて過ごした。渋柿を間違って食べてしまった時のような苦々しさが、ずっとまとわりついていた。
実際にはどうだったかわからない。もしかしたら、ものすごく元気なおばあちゃんだったかもしれない。もしかしたら、実はとても若い人だったかもしれない。声をかけても断られたかもしれない。
それでも。
もしあの時、一言「席どうぞ」と声をかけていたら。1時間立ちっぱなしで体は疲れたとしても、たとえ断られたとしても、こんな思いで過ごすことはなかった。
むしろ、気持ちよく過ごせていたかもしれない。
これは、もう5・6年前の話だが、未だに苦い思い出として私の心に残っている。電車に乗り目を閉じると、時折、あのシワシワの手が静止画のように脳裏に浮かび上がる。
こういう気持ちは、砂時計のように自分の中に降り積もって、いつのまにか心に暗い影を落としていくような気がする。
「もう二度とこんな思いはしたくない」
それから。
私は、「譲ってあげたほうがよさそうだ」と少しでも感じたら、即声をかけるようになった。
もちろん、その人のためでもあるかもしれないが、むしろ自分のためだ。そうすることで自分が気持ちよく過ごすために。
「ありがとう!」と言ってもらえたら、なお嬉しい。それだけで一日が晴れやかな気分で過ごせる。
声をかけるには勇気がいる。
タイミングを逃すと、またウジウジ悩んでしまう自分もいる。
だから「即行動」と「結果にこだわらない。断られてもいいよね!」をルールにした。そもそも結果を期待していないから、断られても気にならない。マイルールができると随分と楽に声をかけることができるようになった。
そして、子供が生まれてからは、席を譲ってもらうという逆の立場になることも増えた。声をかけてもらえると、やっぱり嬉しくありがたい。そして、お受けするときも、断るときも、「ありがとうございます!嬉しいです!」と気持ちを伝えるようにしている。
電車の席の話だけではない。エレベーターでドアを開けてくれたとき、順番を譲ってくれようとしたとき、友人から何かプレゼントをいただくときもそうだ。受ける側に立ったときも、遠慮をせずに受け取り、そして感謝を伝える。
声をかけてくれた、行動してくれた、その気持ちと勇気が分かるから。
「どうぞ」と「ありがとう」
やさしい循環を生み出す、魔法の言葉だと思う。
席を譲るか、譲らないか。さまざまな意見があると思うし、正解は無い。
ただ、たった一言で、ほんの少しの勇気で、自分も周りも、幸せになれる。
わたしもその循環を産む一人でありたいと思っている。
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