平行線で、もう一つの人生を生きている
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
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記事:谷中田 千恵(ライティング・ゼミ平日コース)
最後のページをめくった時、時計は、深夜3時を指していた。
やってしまった。
もう数時間しか眠れない。
こんなに夢中になったのはいつぶりだろう。
遠方へ電車での移動があったため、久しぶりに小説を手にしたは、二日前のことだ。
駅近くのTSUTAYAに入り、探した文庫本コーナーは、記憶よりもだいぶ小さくなっていた。
好きだったエッセイストの名前を探すが、一向に見つからない。
発車の時刻がさし迫り、慌てて手に取ったのは、何年も前にハードカバーで読んだことのある小説だった。
クラシック音楽のコンクールを舞台としたその本は、最近映画化され、狭い文庫本コーナーに何箇所も分散され平積みにされていた。
妥協した選択だったため、気落ちしながらページを開く。
しかし、開いたが最後。めくる手が止まらない。
最後の結末までも、しっかりと覚えているのに、ぐいぐいと引き込まれていく。
本から目が離せない。
気がつくと、私は、電車の中ではなく、コンクール会場の座席についていた。
しっかりと厚みのあるシートに腰掛け、まぶしいステージの光に目を細めた。
ホール独特の、乾燥した空気まで感じられる。
シートの中で、私は、主人公に共感し、手に汗を握り、ライバルの挫折に涙をにじませた。
目的地の駅へ到着したアナウンスで、我にかえると、私は変わらず電車に揺られていた。
1時間半、うつむき続けた首は悲鳴をあげている。
用事を済ませ、自宅に帰ってからも、続きが気になってたまらない。
洗濯や食事の準備を急いで済ませると、本を開いた。
開いた瞬間、見慣れたダイニングルームは、コンサートホールに変貌する。
大きなピアノの音が鳴り響いている。
登場人物たちは、私の目の前、ほんのすぐそこで、呼吸をし、恋をし、緊張をしていた。
本を閉じると、さっと日常が戻ってくるが、余韻は消えない。
会社で仕事をしていても、家で掃除機をかけていても、私の半分はホールのシートに腰掛けて、ステージの音楽に耳をかたむけていた。
平行線で、もう一つの人生を生きているような錯覚を覚える。
このリアリティはなんだろう。
今回が初めての体験ではない。
小説を読むと、大概いつもこうだ。
ページを開くと、周りは、小説の舞台に姿を変え、登場人物たちは、まるで友人たちのように存在する。
日常生活は、あっという間に色あせ、鮮やかなもう一つの世界が現れる。
現実と想像の世界の境界は、あいまいになり、自分がどこにいるのさえもわからなくなってしまう。
作り物の世界などではない。
もう一つの人生。もう一つの世界。
疑がいようのないリアルがそこにある。
そうだ、そうだ、小説ってこうだった。
20代の頃、そのあまりにも迫り来る現実感が怖くなり、小説を遠ざけるようになっていたことを思い出す。
悲しく、苦しい、いじめの話に飲み込まれ、読書が終わった後、数週間立ち直れずにいたことがあった。
華やかな恋の話に、うつつを抜かし、隣の席の人と恋に落ちかけたこともあった気がする。
小説は、鏡のようだ。
写真のように視覚的な情報があるわけでもなければ、音楽のような音があるわけでもない。匂いや手触りもなければ、味も形も動きもしない。
日本という世界的に見ればせまい地域で使われる記号が、ただただ並んでいるだけ。
情報が不足しているエンターテイメントなのだ。
その圧倒的に足りない情報を、自分の体験や、記憶でサポートをしていく。
「古い自転車」と書かれていれば、小さい頃、祖母が乗っていた白いママチャリを思い浮かべ、「茜色の夕焼け」と読めば、10年前のデートで見た海辺の夕日を潮の匂いとともに結びつける。
そうして、脳内に再生されるストーリーは、私の過去と混じり合い、唯一無二の世界へと作り上げられる。
自身の体験が混ざっているので、他のエンターテイメントでは感じられないリアルがそこにある。
主人公の悲しみは、過去の私の悲しみで、ヒロインの喜びは、いつかの私の喜びだ。
もう一つの人生は、鏡に写った私自身の人生なのだ。
若かった私は、社会生活に馴染むことに精一杯で、それ以上のリアルを、持て余すしかなかったのだろう。
30代も半ばを過ぎた今、もしかすると、余裕が出てきたのかもしれない。
うまく距離をとり、俯瞰で見る、鏡の中の私の世界。
年末年始をはさんだ長期の休みも、もうすぐだ。
どうせ、家を出るつもりはない。
たっぷり本を買い込んで、別の人生を生きる年越しも悪くはないかもしれない。
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