メディアグランプリ

腫れたまぶたを開いて


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事:谷中田 千恵(ライティング・ゼミ平日コース)
 
最初の異変を感じたのは、電話をしている時だった。
 
台風で自宅が床上浸水の被害にあい、片付けのため、仕事は一週間の休みをいただいていた。
急遽休みをとってしまったお詫びと、仕事の再開の相談ため取引先にこちらから連絡をしたのだ。
 
電話先の担当者の方は、心配そうに次の業務の提案をしてくださった。
無理はせずにと前置きしながら、新しい締め切りとそれまでの段取りを伝えてくれる。
 
携帯電話の電波は良好だ。相手の言葉は、しっかりと聞こえている。
スケジュールの相談だということもわかっていた。
 
それなのに、内容を理解することができない。
説明された、段取りを思い描くことができない。
 
少し疲れていてと、何度も同じ話を繰り返してもらう。
実際、その一週間、ほとんど睡眠を取れていなかった。
疲れていたのだろうと気にも留めなかった。
 
仕事を再開すると、同じ現象が何度か起こった。
向かいに座った相手の言葉が理解できない。
音は、確かに耳に届いていて、私に向かって話しかけていることはわかる。
脳がそれを拾ってくれない。
まるで、相手と私の間に見えない壁があるようだ。
 
ニッコリと笑顔を作り、もう一度お願いしますと頼むものの、内心は大きく動揺していた。
何度目かの説明で、ようやく理解ができた頃には、焦りから体にびっしょりと汗をかいている。
 
仕事を休まなければならないほど、頻繁に起こるわけではない。
次に話しかけられた時には、いつも通り。
会話や業務に支障はない。
なんとなく、見て見ぬふりをしながら、仕事を続けた。
 
これ以上、休むわけにはいかなかった。
フリーランスという仕事柄、毎月の収入が担保されている訳ではない。
仕事をいただき、働いた分だけが私の生活の支えである。
台風後、一週間働けなかったことは、大きな痛手だ。
駆け出しということもあり、十分な蓄えがある訳ではない。
浸水でダメになった、畳や冷蔵庫だって買わないわけにはいかないのだ。
営業もかけて、新しい取引先とも商談を始めた。
 
しかし、スカートの裾のほつれた糸を引くように、小さなほころびは徐々に広がりをみせていく。
 
仕事再開から、一週間後、人と相談事をすることができなくなった。
一緒に仕事をしている友人と、スケジュールの相談をしていた時のこと。
丁寧に進めようと、ゆっくりとした日程を組んで伝えたが、友人は、今回はスピードを重視したいと別のスケジュール案を提案した。
いつもであれば、議論を重ね、お互いの納得のいく着地点を探るのだが、それができない。
自分の案を否定されたことが、ショックで、次の一言が発せない。
相手の「今回は、違うんじゃない?」の言葉に、動揺し動悸が止まらない。
その通りだねと、なんとか取り繕うが、自分の意見を伝えられず消化不良の歯がゆさだけが残った。
 
また、メールや電話の対応が、億劫になっていた。
台風の被害にあったことで、ありがたいことに、友人や家族から毎日たくさんの連絡をいただいた。
一人暮らしということもあり、皆、心の底から私を心配し、愛のあふれる連絡ばかりだ。
私は、これ以上心配をかけまいと努めて明るく、「全然、大丈夫」を繰り返していた。
畳を廃棄した和室からは、冷たい外気が流れ込み、室内は外のように寒かった。寝具は、浸水ですっかりダメになり、唯一残ったソファで毎晩凍えるように小さく眠る私は、実際のところ、ちっとも大丈夫ではなかった。
 
そのうち、連絡が来ること自体が、うとましくなった。
心配してくださる気持ちが、ありがたくて嬉しい分、そんな風に思う自分を嫌いになっていった。
 
そして、台風から1ヶ月半がたち、少しずつ元の生活が見え始めた頃、体に異変が訪れた。
夜、仕事の電話をかけたが、結局、動悸がして、相手方に自分の意見を伝えることができなかった。
電話を切った後、悔しい思いを消化できずにいると、体がガタガタと震え出した。
部屋が寒いのかと思ったが、新しく揃えた暖房をたっぷり焚いていて、温度計は快適な数値を示していた。
日中、外にいたので、体が冷えたのかと、上着を着込み毛布にくるまる。
どんなに暖かくしても、震えは、変わらず止まらない。
 
怖くなり、両親に電話をかけるが、タイミングが悪く電話に出てもらえない。
親しい友人にも連絡しようと思うが、今、出られずに後から折り返しの電話がかかって来ると面倒だと思い、電話がかけられない。
 
私は、一人ぼっちだ。
 
突然、強い孤独感に襲われ、涙がこぼれた。
涙がこぼれると、感情の防波堤は決壊した。
 
わーんと、漫画の擬音のような声をあげて泣いた。
幼稚園児のように、大きな大きな声をあげて泣いた。
呼吸ができず、手の先や、足の先がじーんと痺れる。
 
散々泣いて、一通り落ち着くと、次の涙がやって来た。
腹痛の波のように、泣いては落ち着き、泣いては落ち着きを何度も何度も繰り返し、最後は疲れ果て、泣きながら眠りについた。
 
翌朝、パンパンに腫れたまぶたを開けて、鏡をのぞく。
ずいぶんひどい顔をしている。
肌は、ガサガサと乾燥していた。しばらく、手入れを怠っていたな。
目の下のクマも、驚くほど黒ずんでいる。
 
カレンダーを見返すと、台風の休みあけ1ヶ月半、休みを取ることもなく働き続けていた。
 
今ある仕事をこなしたら、少し旅行に行こう。
温泉旅行がいい。露天風呂に入って、雪景色を見たい。
 
元の生活に戻るまでは、まだ時間がかかるのだ。
 
そもそも、全く同じ元の生活には、もう戻らないのかもしれない。
台風の前と、今の私はもう同じではないのだから。
 
それでもいい、これから、新しい毎日をゆっくり作ればいい。
 
一人で、よくよく今日まで頑張った。
えらいぞ、私。
 
鏡の自分をたっぷり褒めて、重い仕事用のカバンを肩にかける。
 
力一杯開けたドアから吹き込む冷風は、新しい年の準備を始めていた。
 
 
 
 
***
 
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2019-12-20 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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