子育てタイムスリップ
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
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記事:高橋実帆子(ライティング・ゼミ日曜コース)
「お母さん、今日、僕学校行きたくない」
ある朝、起きてきた長男(8歳)が言った。
「ふーん。そう。あ、わかった。宿題終わってないからでしょ?」
朝食の支度をしながら、私は言った。彼は今、習い事の空手に夢中で、放課後毎日のように通っている。帰宅後、疲れてそのまま眠ってしまい、翌朝慌てて宿題をやる日がときどきある。課題が終わっていない朝は、大人だって会社に行くのが嫌なものだ。
「……違うよ」
長男は蚊の鳴くような声で言って、うつむくとぽろぽろ涙をこぼした。私はびっくりして家事の手を止めた。明らかにいつもと様子が違う。よくよく話を聞くと、学校で友達とのケンカが少々こじれているらしい。担任の先生にも電話で相談し、「まずは学校へ行って、友達と話し合ってみよう」と提案するが、どうしても今日は休みたいという。
「そうかあ…」
居間の時計を見る。教室では今ごろ、「朝の会」が始まっている。
そのとき、教室の片隅できつく唇を噛み、涙をこらえている10歳の女の子の姿が、ふと脳裏に思い浮かんだ。
いつか自分に子どもが生まれ、その子がのっぴきならない理由で「学校へ行きたくない」と言い出したら必ず言ってあげよう、と10歳のとき心に決めた言葉が、私にはあった。けれど、30年近い年月を経て、実際にお母さんになった私は、目の前で泣いている息子に、どうしても「その言葉」をかけることができなかった。
「あ、今日の給食、いちご牛乳じゃん。給食だけでも食べに行ったら?」
「今日、3時間目体育だよ! 体育好きでしょ?」
「ほら、今日行かないと、9の段のかけ算終わっちゃうよ! ひとりだけ遅れたら大変」
私が空虚な言葉を重ねれば重ねるほど、長男は殻に閉じこもり、かたくなに押し黙ってしまった。
どうしてもっと早く子どもの変化に気づけなかったんだろう。
もし、本当にこのまま学校へ行ってくれなかったら、今日の仕事どうしよう――
自分勝手な考えが次々と頭にうかび、焦りと共に、私はだんだん腹が立ってきた。
なんでうちの子だけ学校に行ってくれないの? みんな当たり前の顔をして通っているのに。自分だけわがままを言って学校に行かないなんて、許せない。ずるい。私はこんなに我慢しているのに!
――「私はこんなに我慢しているのに」?
声には出さなかったが、たしかに自分の中から湧いてきた叫び声に、はっとした。私の中に棲んでいる10歳の女の子が、恨みがましい表情でこちらを睨み、腕組みをして仁王立ちしている。
この子のことなら、よく知っている。引っ込み思案で、敏感で、小学校という場所にまったく馴染めなかった30年前の私。学校なんて、大嫌いだった。声の大きい子、足の速い子が威張っていて、いじめっ子は気の弱い私をすぐ仲間はずれにする。苦手なブロッコリーを食べ終わるまで教室から出してもらえないのも、へどが出るほど嫌だった。
「学校に行きたくない」と訴えたら、きっと両親は話を聞いてくれただろう。でも、当時の私には、どうしてもそれができなかった。「行きたくない」と言葉にしたら、いじめっ子や自分自身に負けることになると思っていた。それに、とても怖かった。一度学校を休んでしまったら、張りつめている糸が切れて、二度と教室に入れなくなるような気がして。どんなに嫌でも、我慢して学校へ行かなくちゃ。10歳の私にとって、学校に行くことはほとんど戦いだった。
「学校……行きたくない日も、あるよね」
半ば自分に言い聞かせるように、私はつぶやいた。長男が顔を上げてこちらを見た。
「行きたくない日だってあるよ。あのね、実はお母さん、学校大嫌いだったの。本当は友達と仲良くしたかったけど、どうしたらいいか全然わからなくて。朝、学校に行くのが、すごく怖いときもあった」
大人になった今ならわかる。小学校の教室は、この世界の広さに比べたらミジンコみたいに小さい。たとえ小学校で友達とうまくやれなくても、大きくなって自分の好きな学校に入ったり、大人になって仕事を始めたりすると、素敵な出会いがたくさんある。だけど8歳の君や、10歳の私には、あの小さな部屋が、世界と同じくらい広く、そこで起こる事件が人生を左右するくらい重大に感じられるんだ。
長男はまた、ぽろぽろと涙をこぼした。長男にティッシュを渡して、私も一緒に泣いた。10歳の私が泣けなかった分も。
「あのね、今日、学校休んでいいよ」
呪いを解くための言葉を、私はようやく言うことができた。30年かかった。
「えっ、いいの?」
「一日くらい休んだって何てことないから、大丈夫。お母さんも今日は仕事休む」
うん、とうなずいて、長男は涙をぬぐった。
「今日は学校休んで、気持ち落ち着ける。明日は学校行って、ちゃんと仲直りする」
「それがいいよ」
私は長男の頭をぽんぽんとなでた。
子育ては、タイムスリップの連続だ。遠い日の忘れもの。やり残したまま忘れていた宿題。子どもの成長と一緒にひとつずつ拾い集め、宿題は終わらせて、自分の中で止まっている時間を動かしていく。子どもを育てているように見えて、救われているのはいつも、私の方なのだ。
「よし。お昼はみんなで一緒においしいもの食べよう」
「みんなって……お母さんと僕しかいないじゃん」
今日初めて、長男が笑った。
「そうかな。何でも好きなもの言って。あ、ブロッコリーはなしね」
息子の隣で、10歳の私が、くすりと笑ったような気がした。
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