2020に伝えたい1964

4年に1度、必ず注目される競技《2020に伝えたい1964》


記事:山田将治(READING LIFE公認ライター)
 
 

オリンピックが開催される4年ごとしか、話題にならない競技がある。
フェンシングやアーチェリーがそれだ。もっとも、これらの競技は、最近になって日本人選手がメダルに手が届く様になってから注目される様になったまでだ。
ところが、オリンピックに於いて、獲得したメダル数が日本の全競技の中で4番目、金メダルに限ると柔道に次ぐ2番目の獲得数を誇る競技が、閏(うるう)年にしか注目されないのはどうしてなのだろうか。
それは多分、マイナー競技の宿命なのかもしれない。
レスリングとは、そんな競技だ。
ただ、最近は、女子選手が増え、しかも、日本のレスリング女子選手は、これまでほとんどのクラスでメダルを獲得しているので、以前に比べて注目される様になってきた。
 
1964(昭和39)年オリンピック東京大会のレスリング競技は、男子のみで『グレコローマン』『フリー』の両スタイルが、大会2日目の10月11日(日曜日)から、駒沢体育館で行われた。この会場は、56年経った現在でも色々なレスリングの大会が行われている。
因みに、レスリング、それもフリースタイルが、女子にも広げられたのは、21世紀になった2004年のオリンピックアテネ大会からだ。
また、競技が真っ先に始まったレスリング だが、現在の競技進行が現在と違っていて、各階級の決勝戦はフリースタイルが10月14日、グレコローマンスタイルが10月19日に纏めて行われていた。これにより、日本選手団の最初の金メダルは、10月12日のウエイトリフティングの三宅選手となったのだった。
 
1964年当時、5歳だった私は、この初めて観るレスリングという競技に、釘付けとなった。何故なら、『グレコローマン』という短語を始めて耳にしたからだ。この不思議な響きの単語の意味を、幼稚園の園長先生の御長男(当時、上智大学神学部の学生)に聞いてみた。
「しょう坊らしいな。そんなところに気が付いたか。『グレコローマンスタイル』は、聴き慣れた英語風に言うと『ギリシャローマ』と思えばいい」
未だ不思議そうな表情の私に、
「レスリングは、ボクシングと同じく大昔からある格闘技なんだ。『グレコローマンスタイル』は、ボクシングと同じく上半身しか攻めてはいけないんだ」
そして、
「昔の西洋では、脚で攻めたり守ったりすることは卑怯な行為とされていたんだぜ。聖書にだって出て来るよ」
と、牧師を目指す学生らしく教えてくれたものだった。
レスリング競技は、お兄さんが教えてくれた通り伝統のある競技で、1896年の第一回アテネ大会から競技に採用されていた。ただしこの時は、『グレコローマン』スタイルの無差別級のみだった。現在とは違って公平の観点もなく、そこに有ったのは厳格なアマチュアニズムだけだった。
 
そのご、体格に劣る日本人選手にとって、階級があるレスリングは、ハンデが無くなり好都合な競技となる。しかも、民族的に下半身が強く、柔道という全身を攻防に使う武道の発祥地である日本にとって、同じく全身を使うことが出来る『フリースタイル』の採用は、さらに好都合となった。
子供の目には、道着を掴み引き合う柔道よりも、赤と青のシングレット(レスリングの試合着)で闘うレスリングの方が、どこか正々堂々感が有り格好よく見えたものだった。しかも、4回級しかない柔道より、試合数が多いレスリングに観入ってしまっていた。
ルールも簡単に覚えることが出来たのも、不思議がなかった。
 
レスリングという文字を、5歳児が最初見目にしたのは新聞だった。当時の新聞には一部で、漢字に‘ルビ’が振ってあり、子供でも読むことが出来たからだ。
私は、幼稚園の先生に、
「お家芸って何?」
と、聞いたものだ。新聞の誌面に“日本のお家芸レスリング”とあったからだろう。実際、レスリングは、戦後初参加となった1952年のオリンピック・ヘルシンキ大会で、唯一の金メダルを獲得(石井庄八選手・フリースタイルバンタム級)
した。これは、日本レスリング界初の金メダルでもあった。
この後、1956年のメルボルン大会では金2銀1のメダルを獲得する。続くローマ大会では、東京開催が決まった直後だったので、期待が大きかった。ところが、獲得できたメダルは、フリースタイル・フライ級の銀メダルのみだった。期待を裏切る形に、監督だった八田一朗しが、率先だって丸刈りになった姿が、写真として新聞紙上に発表されていた。
 
この、八田監督は、バレーボール女子の大松博文監督と並び称される、名物監督だった。御両人共、スパルタ練習を選手に課したことも共通だった。
特に八田監督は、大松監督の‘回転レシーブ’の様に新しい技を編み出した訳では無かった。昔ながらの、精神論が先導していた。
その猛特訓は、後に『八田イズム』として知られる。今も語り継がれている練習では、真冬の夜中に選手を叩き起こし、5分後にスパーリングを開始し、その後、寒中水泳をさせたというものがある。その他にも、選手を動物園に連れ出し、ライオンや虎の檻の前に立たせたかと思うと、
「神経を集中して、10分間目を合わせろ」
と、命令した。檻を挟んでいるとはいえ、選手にとっては恐怖に変わりなかった。それにより、徐々に選手は試合前の緊張が、過剰に高まることはなくなったそうだ。
また、風変わりな練習では、選手にマスクを付けた状態でスパーリングさせたりした。当時のマスクは布(ガーゼ)製で、現代の紙マスクよりも通気が悪かった。当然、空気(酸素)の吸入量が減り苦しくなる。しかし、この状態に慣れてくると、選手は飛躍的に心肺機能が向上した。
こうした、スパルタ練習のお蔭で、日本のレスリングチームは、フリースタイルで3個、グレコローマンスタイルで2個の金メダル、他に1個の銅メダルを獲得する。それまでのオリンピックで、合計でも4個しか金メダルを獲得することが出来ていなかったので、十分な戦績であったにもかかわらず、
「重量級が全く振るわなかった。不本意な成績だ」
と、八田監督の憮然とした表情が印象に残っている。
 
その一方で、八田監督は、オリンピック以外で注目されることの無いレスリングのマイナー性を熟知していて、文部省(当時)に高校体育で、レスリングの必修化を働き掛けたりした。
また、選手・コーチには、マスメディアの取材は断らずに受け、必ず愛想良く対応する様に徹底させた。
 
1959年生まれの私が、こうまでレスリングに熱くなるのかというと、東京オリンピックと別にもう一つ理由がある。
それは、オリンピック・メキシコ大会を間近にした、1968年4月にテレビ放映が始まった『アニマル1(ワン)』というアニメ番組が有ったからだ。このアニメは、時代を反映していて東京墨田区の運河で船上生活を送る、大人数兄弟(6男1女)の父子家族の長男が、中学進学を機にレスリングに出会い、遂にはオリンピック・メキシコ大会を目指すという物語。当時、小学4年に進級していた私は、毎週楽しみにしていたものだった。
‘アニマル’の語句から、浜口京子選手の父・アニマル浜口氏がモデルなのかと思われがちだが、実はこの‘アニマル’の称号は、東京オリンピックの金メダリスト渡辺長武(わたなべおさむ)選手が付けられていた。しかし、渡辺選手は東京オリンピック後、実質的に第一線を退いていて、メキシコ大会に向けての予選会に参加していない。
一方、メキシコでア二メ通り金メダルを獲得したのは、フリースタイルでは、中田茂男・上武洋次郎・金子正明の三選手だ。他にも、宗村宗二選手がグレコローマンスタイルで獲得している。しかし、『アニマル1』で描かれていたのは、間違いなくフリースタイルだったので、私は、渡辺選手と上武選手を掛け合わせ、そこに八田監督のキャラクターを振りかけたのでは無いかと感じている。
 
東京オリンピックの23年後、私は、テレビで懐かしい名前を発見した。1988年に開催されるオリンピック・ソウル大会の代表選考を兼ねた、レスリングの日本選手権大会でのことだ。画面から目を離した私は、“ワタナベオサム”という聞いたことのある名前を耳にした。画面に目を戻すとそこには、既に髪が薄くなりかけた40代と思われる選手が試合場に上がっていた。まさかと思ったが、『渡辺長武』と漢字で表記されたテロップを目にした時、間違いなく東京オリンピックの金メダリストと確認した。
試合は、相手の若手選手の一方的な展開となり、渡辺選手は準々決勝で敗退した。当然、ソウル大会の代表にはならなかった。しかし私は、翌日の新聞で驚くべき文字を目にした。見出しでは、
「東京オリンピックの金メダリスト渡辺選手、遂に連勝記録が止まる」
と、あったのだ。記事には、渡辺選手が20年ものブランクがあるのに、何故再びオリンピックを目指したのかという理由は書かれていなかった。その代わりに、ギネスブックにも載っている渡辺選手の連勝記録が、“189”で止まったと記載されていた。
 
21世紀になり、吉田沙保里選手と伊調馨選手の出現で、女子一辺倒になりつつある日本レスリング界。
今年の東京大会では、どんな“ニューアニマル”が生まれるのか、楽しみに待つことにしよう。
 
しかも、1964年のメダリストが全て存命のレスリング競技は、他とは違うドキュメンタリーが放映されるかもしれない。
こちらも楽しみに待つことにしよう。

 
 
 
 

❏ライタープロフィール
山田将治( 山田 将治 (Shoji Thx Yamada))

1959年生まれ 東京生まれ東京育ち
天狼院ライターズ倶楽部所属 READING LIFE公認ライター
5歳の時に前回の東京オリンピックを体験し、全ての記憶の始まりとなってしまった男。東京の外では全く生活をしたことがない。前回のオリンピックの影響が計り知れなく、開会式の21年後に結婚式を挙げてしまったほど。挙句の果ては、買い替えた車のナンバーをオリンピックプレートにし、かつ、10-10を指定番号にして取得。直近の引っ越しでは、当時のマラソンコースに近いという理由だけで調布市の甲州街道沿いに決めてしまった。

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2020-03-02 | Posted in 2020に伝えたい1964

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