2020に伝えたい1964

聖火が日本にやって来た《2020に伝えたい1964》


記事:山田将治(READING LIFE公認ライター)
 
 

ギリシャのオリンポスの丘で採火された聖火が、2020年3月20日、日本に到着した。今回は、諸般の事情で飛行機により、直接東北の地に運び込まれた。
 
56年前も、同じ様に聖火は飛行機でやって来た。当時5歳だった私は、その時テレビのニュース番組で観た光景を、とても鮮明に覚えている。何故なら先ず、その画面がカラー映像だったからだ。そして、聖火ランナーに伴走する車は、右側を走行していたことも不思議に思っていた。1964年当時、聖火が最初に上陸したのは、当時アメリカ施政下だった沖縄だったからだ。それでも沿道は、日の丸の小旗で埋め尽くされた。5歳だった私は、特段の感慨はなかったが、大人、それも戦争を知っている世代には、特別の思いが有ったことだろう。
 
1964(昭和39)年の聖火リレーは、高度成長中の日本を象徴するものだった。沖縄へ聖火を運んできた飛行機は、日本航空が所有していた最新鋭の『コンベア880』だった。この飛行機は、当時、世界最速のジェット旅客機だ。
離島の沖縄から、日本各地に聖火を分配して運んだのは、全日空の『YS11』。戦後初の、日本で開発し製造された旅客機だ。まるで、飛行機の見本市の様相だったが、せめてもオリンピック気分を出そうとして、『YS11』は“聖火号”と便名が付けられた。
全日空が飛行機に便名を付けることは、珍しいことでは無かった。例えば、1970年に日本で初めて起きたハイジャック事件に巻き込まれたのは、有名な“よど号”だった。
 
1964年の東京オリンピックにやって来た聖火は、慣例通りギリシャから東南アジアまでは、陸路をリレーされて運ばれて来た。その後、フィリピン・香港・台湾・沖縄と、空路で運ばれて来たのだった。
今回調べたところによると、評論家の虫明亜呂無(むしあけあろむ)氏が、聖火リレーに付いて、興味深い文章を残していた。それは、
「もし、1940年に予定通り東京でオリンピックが開催され、その前のベルリン同様、聖火リレーが行なわれていたならば、帝國日本は、あの様な無謀な戦争を起こさなかったろう。少なくとも、‘インパール作戦’等の無為な作戦は採らずに済んだろう」
というものだ。
少し解説させて頂くと、オリンピックの聖火リレーは、1936年のベルリン大会に始まる。発案したのは、当時のナチス政権で政策立案の中枢に在った、ゲッペルス宣伝相と伝えられている。
実際、ギリシャからベルリン迄を、全て陸路で聖火は運ばれた。聖火には、ドイツ陸軍の軍人が伴走として随行した。オリンピック・ベルリン大会の3年後、ナチス・ドイツ陸軍は、聖火がやって来た道程を逆行して、瞬く間にギリシャが位置するバルカン半島迄を制圧したのだった。聖火に随行したナチス軍人は、ベルリンからギリシャ迄の行軍路を下見していたのだ。
虫明亜呂無氏の説では、旧日本帝国陸軍も、同じくギリシャから日本へ向けての陸路を下調べしていたら、灼熱の砂漠や、雨量の多い亜熱帯気候を知るに至っていた筈だ。そうすれば、インドシナ半島の奥地や、ましてや、ビルマ(現・ミャンマー)からインド東部(現・バングラデシュ)のインパールに戦線を拡げ、何十万のも貴重な若者の命を粗末にすることはなかったことだろう。
 
1964年8月21日にギリシャで採火された聖火は、その後、アテネ(ギリシャ)、イスタンブール(トルコ)、ベイルート(レバノン)、テヘラン(イラン)、ラホール(パキスタン)、ニューデリー(インド)、ラングーン(ビルマ)、バンコク(タイ)、クアラルンプール(マレーシア)、マニラ(フィリピン)と、一部海路を交えたが殆どは陸路を各国の聖火ランナーに運んでもらった。
それには、先の大戦で日本の軍隊によって多大な迷惑を掛けたアジア諸国への謝罪という意味が含まれていた。もう一つ、近代オリンピックが初めてアジアで開催されることを、戦後独立を果たしたアジアの同胞にも喜んでもらおうとするものだった。
聖火は、当時、日本と外交関係が無かった中国(中華人民共和国)を避け、香港(当時はイギリス領)、台北(台湾・中華民国)、沖縄(当時はアメリカ合衆国の統治下)と、平和のための聖火リレーを印象付ける様に運ばれたのだ。
 
聖火は、沖縄から空路、日本本土に運び込まれ、4つのコースに分かれて各県をランナーがリレーして回るコースが取られた。
テレビニュースでは連日、刻々と東京に近付く聖火を報じていた。
「本日、聖火は○○県でリレーされました」
と、言った具合で。
5歳の私は、その時使われたトーチ(現在、駒澤のオリンピック公園で実際に触ることが出来る)が、剣の様に見えた。そして、とても重そうに見えたものだった。
今回、ウイルス感染の影響で聖火をランタンに移し、自動車で運ぶことが検討された。実は1964年の時も、リレー出来ず自動車で運ばれた区間が有った。それは、兵庫県庁から大阪府庁までの区間だ。折からの台風接近に伴い、聖火リレーが中止され、その間を自動車で運んだという記録が残っている。
ただしこれには後日談が有り、担当する筈だった聖火ランナーは、オリンピック開幕前の10月1日、西宮の陸上競技場に集められた。そこで、模擬聖火リレーが、実際に使う筈だったトーチによって行われたのだった。このトピックは、当時のニュースで、私も確認している。
子供心にも、何だか安堵したことを記憶している。
 
3月20日に、聖火は仙台の空港に到着した。折り悪く、強風が吹き付ける中、苦労の末に聖火はモニュメントに降り立った。
 
56年前、東京の青空に大きな大きな五輪を、飛行機雲で描き出した航空自衛隊のブルーインパルス隊。今回は、新装なった国立競技場に屋根が付いてしまったことで、宮城の地でそれを再現することになっていた。
現在、ブルーインパルス隊は、仙台をフランチャイズにして居り、なおかつ、仙台空港自体が、9年前の東日本大震災で津波の被害を受けているのだから、“復興五輪”と位置付けられた、今回の東京オリンピックにはピッタリのイベントだった。
 
(広目 スペース)
東京にオリンピックが帰ってくる丁度4か月前の2020年3月24日、正式に東京オリンピックの1年程度の延期が決まった。
還暦を過ぎる齢を重ねた私は、3月20日の仙台の空を思い返していた。
56年前と同じ様に、いや、それ以上に見事な五輪を大空に描く筈だったブルーインパルス隊。ところが、その飛行機雲が強風により瞬く間に流されてしまっていた。
1964年10月10日東京の空は、見たことも無いほど晴れ渡っていた。5歳だった私は、それしか記憶に留めていなかった。
今回の仙台の模様は、56年前の東京は晴れていただけでなく、無風だったと後付けの記憶をもたらした。
 
流れてしまった飛行機雲の五輪は、4日後の東京オリンピック延期を暗示していたのだろう。
 
 

【追記】
お楽しみ頂いている『2020に伝えたい1964』ですが、文中にも記しました通り、東京オリンピック延期の決定により、本来の形を続けることが困難となりました。
4月に掲載予定している記事は、そのままで行こおうと存じます。
それ以降に関しましては、READING LIFE編集部と相談の上、予定を変更させて頂くことになります。詳細は、逐次報告させて頂きます。
どの様な形にせよ、東京オリンピックが開幕するまで、完遂する所存で御座います。
(山田将治)<・blockquote>
 
 

❏ライタープロフィール
山田将治( 山田 将治 (Shoji Thx Yamada))

1959年生まれ 東京生まれ東京育ち
天狼院ライターズ倶楽部所属 READING LIFE公認ライター
5歳の時に前回の東京オリンピックを体験し、全ての記憶の始まりとなってしまった男。東京の外では全く生活をしたことがない。前回のオリンピックの影響が計り知れなく、開会式の21年後に結婚式を挙げてしまったほど。挙句の果ては、買い替えた車のナンバーをオリンピックプレートにし、かつ、10-10を指定番号にして取得。直近の引っ越しでは、当時のマラソンコースに近いという理由だけで調布市の甲州街道沿いに決めてしまった。

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2020-03-30 | Posted in 2020に伝えたい1964

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