「逃げ切った物語」《週刊READING LIFE vol.95「逃げる、ということ」》
記事:青木文子(天狼院公認ライター)
2011年8月。
ガタガタ道を一関からレンタカーでひた走った。震災後まだ数ヶ月。車は陸前高田の街を目指していた。2時間ほど走っただろうか。最後の峠道を抜けると、視界がひらけた。
わかってはいたはずなのに、言葉を失った。
車のナビを見れば目の前は陸前高田の街のはずだ。でもそこに広がっていたのはかつて「街だった」場所だった。大きな建物鉄筋の建物がいくつか残っているだけ。その建物も、そのほとんどが窓ガラスはこわれ、窓枠ははずれ、向こう側が見通せる。峠をおりて、平地に車を走らせていくと、まるで地図のように家の土台や、店の土台だけが残っている。ナビをみながら車の左右をみる。ここはガソリンスタンドのはず。ここにはコンビニがあったはず。でも、今目の前にあるのは四角に位置を示す土台だけ。
平地のあちこちには見上げるような瓦礫の山が積み上げられていた。瓦礫はかつて家や店やビルであっただろう残骸。木や車やその他のものと雑多に積み上げられている。その瓦礫の山の麓を自衛隊の人たちが長い棒をもって歩き回っている。おそらく、まだ続いている遺体捜索であろう。瓦礫の山と瓦礫の山の合間から静かに光る青い海が見えた。
東北の大震災の後、全国青年司法書士協議会のプロボノ活動が始まった。4人一組で、被災地の仮設住宅を回りながら、法律相談を受けるという活動だ。ちょうど8月のお盆の時期、全国のどの青年司法書士会も引き受け手がいない日程を岐阜の司法書士の仲間たちと一緒に、引き受けることになった。陸前高田は被災が激しくて、宿泊する場所などない。一番近く泊まれる場所が一関のビジネスホテルだった。一関で泊まり、そこから毎朝レンタカーで陸前高田に往復することになった。
法律相談といってもやることは、一軒一軒を訪ねて、ドアベルを押して、「なにかお困りごとはありませんか? 法律相談でお聞きできることはありませんか?」と聞いていくことだった。被災地に方たちにとって、お困りごとといえばすべてがお困りごとであろう。ドアベルを押すことも迷う。そもそも、仮設住宅を回っての法律相談が今の時点でどれだけの助けになるのだろう。何度も自分に問いかけた。
仮説住宅の位置すら把握できておらず、先に言った司法書士仲間たちがグーグルマップにプロットしてくれた場所を頼りに仮設住宅を訪ねていく。出てくる方たちのささやかな話し相手になることや、小さな法律のアドバイスしかできないけれど、「私達が忘れられてないと言うことがわかるだけでもよかった」という言葉に逆に私達が励まされるのだった。
法律相談の2日目、また一関から2時間近くかけて陸前高田までたどり着いた。この日私は陸前高田のある集落の公民館にいることになった。和室の部屋に長机を拡げたにわかづくりの相談室。前日から「法律相談お受けします」の張り紙をしていてくださったので何人かの相談の予約が入っていた。4人のメンバーの内、私がひとり公民館に残って相談を受け、他のメンバーは別の仮設住宅を回ることになったのだった。
訪ねてこられる方たちの法律相談は相続のこと、壊れた借家のこと、流されてしまった契約書のことなど、細々したものだった。それはそうだろう。まだ何をどうしていいかわからない状況の中なのだから。
法律相談をしてくださる方たちに私はどうしても聞きたいことがあった。聞いて良いのかどうかを迷っていた。失礼にあたるかもしれないと思った。近しい方を亡くされている方も多い。
何人目かの相談が終わりかけた頃、私は思い切ってその方に、心の中にあることを聞いてみた。
「あの……もし差し支えなければ、どうやって逃げたか聞かせていただいてもいいですか」
最初に私が聞いた方は、質問に深く息を吸い込んだ後、思いがけずこう言われたのだった。
「聞いてくれますか?」
その方は地震が来てすぐに家の外に飛び出したという。どちらに逃げようか、だれに連絡しようか迷っているうちに津波が来るのがわかった。すぐ家の後ろの裏山。道を探している時間はない。ヤブをかき分け、枝に手を伸ばして、手も足も傷だらけになりながら山の斜面を登ったそうだ。
「後ろから音が追いかけてくるんですよ」
音、ですか?
「そう、波よりも先に音が追いかけてくるんです。津波が家を壊したり、物と物をぐしゃぐしゃにする、もうほかでは聞いたことがないような爆音が耳元に追いかけてくるんです」
その方はなんとか裏山を登りきった。一緒に登っていた何人かは上までたどり着かずに波に飲まれたという。
裏山に登りきった震災の夜、陸前高田には小雪が舞ったそうだ。同じように裏山に登りきった人たちの中でマッチを持っていた人がいた。周囲の枯れ木を集めて焚き火を作った。その焚き火を囲んで夜が開けるのを待ったという。
「この話、誰かに話したの、初めてです」
帰り際、振り返ってその方は言った。
「聞いてくれてありがとう」
私の方こそありがとう、だった。この人はなぜありがとう、と言ったのだろうか。自分がどうして今ここにいるかの理由。自分が逃げて生き延びた物語。
私は、それから何人もの方にどうやって逃げたかを聞いた。もちろん失礼のないように様子を見ながらではあるけれど、その誰もが、自分が逃げて生き延びた話を、堰を切ったように話してくださるのだった。
次の年からは山田町に法律相談に行くようになった。私はなぜか毎年夏のお盆の時期に4日間東北に法律相談支援に行くのが習慣になっていた。
「うちはね、タバコ屋なのよ、2階建ての」
「地震が来てね、これは逃げなきゃって思って逃げたのよ。かなり逃げてもう大丈夫かなって後ろを振り返ったらね。黒い山が見えたの」
「それがうちのタバコ屋の何倍もある高い山でね。なんで海の方に山がある?
って一瞬思って。それが盛り上がった波だとわかったときに、もう言葉がなかったわ」
ある年のこと、山田町の山間の仮設住宅を訪れたときのことだ。もう、夕暮れも迫っていた。仮設住宅の外のベンチに3人のおばあさまたちが座っておしゃべりをしていた。
長いベンチだった。その隅っこに私も座らせていただいた。その方たちは3人共80台の女性。よもやま話をするうちに、その中のお一人が話し始めた。
「昭和8年の大津波の時にね、わたし、小学校1年生だったのよ」
そのときに自分たち家族は高台に逃げて無事だったという。それでもその震災後、学校の講堂、いまでいう体育館だろうか、そこに筵をかぶせられた遺体が並べられて、その筵を一枚ずつめくって、自分の家族を探す遺族の人たちの姿を覚えているという。
親はくりかえしこういったそうだ。
「とにかく津波でだけは死ぬるなよ。地震が起きたらなにをしていても高台に逃げんといかん」
親から繰り返し繰り返し言われて育ったという。
「だからね、わたしもね、自分の子どもにも孫にも、ずっとそれを言ってきたのよ」
「だから今度も私の子どもたちも孫たちもみんな生き延びたの」
東北の震災で知られるようになったものに「津波てんでんこ」という言葉がある。「てんでんこ」とは、「それぞれで」というような意味合いだ。言い換えてみれば、津波のときはそれぞれで逃げろ、という意味であり、同時にまずは人のことに構わずに自分が逃げることが大事と伝える言葉である。
逃げるには逃げ切ることが必要だ。逃げ切れなかった者たちは語ることができない。逃げ切った者はそのことを語る。自分がどうやって逃げたのかを、なぜ逃げ切れたかを。それは震災に限らない。
私達はいくつものものから逃げる。そして生き延びてきた。逃げ切れたときにそのことを語る。あとから生きる者たちのために。あなたは今までの人生で何から逃げ切っただろうか。その逃げ切った物語を人に語ったことがあるだろうか。
逃げ切った物語を語り伝えることは、大きな意味で、私達が生き延びていくための知恵なのかもしれないと思うのだ。
青木文子(あおきあやこ)
愛知県生まれ、岐阜県在住。早稲田大学人間科学部卒業。大学時代は民俗学を専攻。民俗学の学びの中でフィールドワークの基礎を身に付ける。子どもを二人出産してから司法書士試験に挑戦。法学部出身でなく、下の子が0歳の時から4年の受験勉強を経て2008年司法書士試験合格。
人前で話すこと、伝えることが身上。「人が物語を語ること」の可能性を信じている。貫くテーマは「あなたの物語」。
天狼院書店ライティングゼミの受講をきっかけにライターになる。天狼院メディアグランプリ23rd season、28th season及び30th season総合優勝。雑誌『READING LIFE』公認ライター、天狼院公認ライター。
□ライターズプロフィール
青木文子(あおきあやこ)(天狼院公認ライター)
愛知県生まれ、岐阜県在住。早稲田大学人間科学部卒業。大学時代は民俗学を専攻。民俗学の学びの中でフィールドワークの基礎を身に付ける。子どもを二人出産してから司法書士試験に挑戦。法学部出身でなく、下の子が0歳の時から4年の受験勉強を経て2008年司法書士試験合格。
人前で話すこと、伝えることが身上。「人が物語を語ること」の可能性を信じている。貫くテーマは「あなたの物語」。
天狼院書店ライティングゼミの受講をきっかけにライターになる。天狼院メディアグランプリ23rd season、28th season及び30th season総合優勝。雑誌『READING LIFE』公認ライター、天狼院公認ライター。
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