思い出は河原の石
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記事:鈴木 道(ライティング・ゼミ日曜コース)
昨年の12月、夫と私はユーチューブでノーリッジ大聖堂の聖歌隊によるクリスマスの讃美歌をよく聴いた。そんなチャンネルがあることを知らなかったので、見つけたことを得意に思い、懐かしさに浸り、元気をもらいながら。
その頃、夫は担っている役割の一つで困難をかかえていた。プライベートでは二人の息子の結婚式がふた月のうちに続けて行われたところだった。単純に喜んでいる父親のようにはいかず、私のほうは、無事挙げられたことに感謝と安堵の気持ちとともに、彼らの幼い頃のことなどが思いめぐらされ、落ち着かない気持ちでいた。
私達はイギリス東部のノーリッジの街に滞在したことがあった。讃美歌を聞きながら、その時のことを懐かしく思い出し、またイギリスに行きたいね、いつになったら海外に行けるようになるかなあ、と話していた。新型コロナウィルス感染症が日本以上にイギリスで猛威を振るっていることを心配もしていた。
ノーリッジ大聖堂は近かったのでたびたび訪れた。キリスト教の国にいるのだからとクリスマスを待ちわびる待降節の時期の音楽礼拝やカフェで提供されるクリスマスのランチを食べに行き、伝統的な文化の雰囲気を味わうこともできた。聖堂いっぱいに参列している人々がクリスマスの讃美歌を朗々と歌う様子にキリスト教の伝統の力強さ、荘厳さを感じずにはいられなかった。ノーリッジだけでなく、ロンドンの教会のクリスマスの音楽会やマタイ受難曲なども聞きに行きキリスト教音楽を楽しんだ。
そんな思い出を話しながら、私の心には言葉にしなかった思いがあった。彼のイギリスでの思い出の中には懐かしい、楽しいだけではない経験もあったからだ。
夫は、自分の専門分野とは少し領域の違った分野の研究をイギリスの大学院でしたいと願っていた。職場も休職を認めてくれ、多岐にわたる準備を整え受け入れてもらえる大学院もめどがついた。だが、英語の力が不足していた。指導を受けていた語学学校と相談し、大学院に受け入れられるだけの点数を取れるかどうか、イギリスで英語を学びながらチャレンジしてみることになった。いわば最後の望みをかけての渡英だった。合格点をとることが叶わなければ大学院入学はあきらめて帰ってくることになる。
イギリス行きを夢見て準備を始めた頃、夫は一人で行く予定にしていた。私は仕事をしていたし、本人は比較的生活力はあり、一人で大丈夫だと言っていた。私もそのつもりでいた。夫がイギリスにいる間に旅行に行くことを計画したいと思っていた。しかし、いよいよ渡英が現実味を帯びてきた時、私は迷い始めた。私にとってもこれは海外で暮らすことができる人生最初で最後のチャンスではないか。
私も一緒に行きたいと夫に相談をした。職場の環境から私は休職できず、仕事はやめることになる。夫は、じっと考えていた。そして、夫の口から出たのは、
「どう考えても、僕は君に一緒に来てほしい、とは言えない。もちろん君が一緒に行く、というならそれを止めることはしない」
という言葉だった。
「ここはうそでも、うれしい。一緒に行こう、と言うべきところでしょう! 」
と私は言ったが、夫の考え方は変わらなかった。
ショックではあったが、夫の性格は十分理解している。私は、
「私の意思でイギリスに一緒に行きたい。多分、もっと年を取った時、海外で一緒に見たり聞いたりした経験を共有していることは私たちにとって悪いことじゃないと思う」
と伝えていた。それから半年ほどかけて仕事を辞めるための準備をし、11月、夫に2か月遅れて私もイギリス行きの飛行機に乗った。
夫は目標に対してぶれない人だ。イギリスに行ってからもストイックに受験勉強を続けていた。授業を休むことなく、予習復習も手を抜かなかった。彼がパソコンを使わずに書いた筆記体の文章をリンカーンの書く英文のようだ、とその字体の美しさを褒められ、意外な視点に苦笑いをしたりもした。語学学校に籍を置きながら、機会があればイギリスの文化や生活に触れることを楽しみたいと思っていた私とは、取り組み方が違っていた。
だが、残念なことに何か月か後、このまま続けても大学院合格のレベルまでもっていくのは難しいと判断せざるを得なかった。彼にとっては大きな挫折の体験だったと思う。同時に、イギリスの大学で教えている知人など複数の方々に、彼が目指すことの実現は、必ずしも大学院での研究が不可欠ではないのではないかとアドバイスをもらい、新しい視点を得ることもできた。
方針は変更になったが語学学校には6月までとどまることにした。彼の勉強への取り組みの姿勢はそれまでと変わることはなかった。
年末年始の休みで息子が旅行に来た時も、ゴールデンウイークに娘が来た時も、学校が休みの時はロンドン観光などに同行したが、授業が始まるのに合わせて自分だけ一足先にノーリッジに戻った。私は息子をヒースロー空港へ送ったあと、交通会社の大規模なデモに巻き込まれ、大変な思いで一人ノーリッジにもどったことなどスリルも味わった。
とはいえ、受験の重圧がなくなってからは、私が計画した国内やスコットランドへの小旅行、今後の彼の活動に役立つだろうと知人がドイツの学校見学を企画してくれたり、スイスの友人を訪ねたりと学校との往復以外の遠出も一緒に楽しむことができた。
帰国後、職場は、当初の目的を果たせず帰ってきた彼にこれ以上ないポジションを用意して待っていてくれた。大学院での研究は果たせなかったが、今では、むしろジェネラリストとしての視点をもって講演会に招かれたり、書籍の一部を執筆させてもらったり、考えていた以上の活動ができている。別のルートで登山を続け、目標を達成したといえる状況だ。
良いことだけの経験ではなかったイギリス滞在だが、水の流れに角が削られて丸くなった河原の石のように、思い出は、つらかった角は磨かれ、丸みを帯び、貴重なものになっていた。困難にぶつかった時に、イギリスでの思い出に力をもらうこともできるようになっていた。
夫は、私が一緒にイギリスに行きたいといった時の自分の言葉も、
私が2か月遅れてヒースロー空港についた時、夏目漱石もメンタルを痛めたといわれるイギリスの寂しい冬の始まりに、大分気弱になっていて、
「君が来てくれなかったら、冬休みは一人で過ごせなかったと思う。日本に帰るところだった」
と言ったことも、今となっては忘れているに違いない。
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