メディアグランプリ

母から「ありがとう」を奪った私が、「ありがとう」を取り戻そうとする話


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記事:平田未緒(ライティング・ゼミ平日コース)
 
 
「ありがとう、ありがとう、って、いちいち言わないでくれますか? 気持ち悪いんですけど」
 
面と向かって、自分に言われて、いちばん衝撃だった言葉である。
 
相手は、私がまだ20代後半だったとき、中途採用で入社してきた年上の編集記者Sさんだ。
 
思ってもみないことで、瞬間、言葉が出なかった。「ありがとう」はいい言葉だと信じていた。なのに、その「ありがとう」が気持ち悪いだなんて、ありえなかった。
 
そんな私に、Sさんは続けた。
 
「当たり前のことをやっているだけですから」
 
「……」
 
相変わらず言葉は出なかった。が、なるほどとも思った。確かにそうなのかもしれなかった。
 
その後、私はSさんに「ありがとう」を言わないように意識した。すると、とたんに会話が詰まりまくった。そのくらい、無意識に私は「ありがとう」を言っていた。
 
結局私は「ありがとう」が止められなかった。ところが彼との関係性は良好だった。
 
2年ほどで彼は他社から引き抜かれ、私も自分の「ありがとう」に、意識を向けることはなくなった。
 
そこから約15年。ある日突然、Sさんとの会話がよみがえった。
 
病気がちだった父の具合がだんだん悪くなってきて、父を看る母を手伝うために、しばしば実家に行くようになって気が付いた。
 
母が、何にでも「ありがとう」を言うのである。
 
朝ごはんを作っても、夕ごはんを作っても、お茶を入れても、片づけても、「ありがとね!」。
そこに「あなたはホント、いろんなもの手際よくチャッチャカ、チャッチャカ美味しく作るわねー」と重ねてくる。
 
私は台所で、居間に座る母に背を向けながら「いや、おおざっぱで雑なだけだし」。
「っていうか、アナタが『お手伝いしなさい』と言って、長女の私を仕込んだんでしょ」と、うれしいくせに、かわいげのないことを言ってしまう。
 
それでも「ありがとね!」を発し続ける母がいて、「そうか、私の『ありがとう』は、母ゆずりだったのか」と思い至った。
 
同時に、Sさんが「ありがとうが多くて気持ち悪い」と言ったのは、実は気恥ずかしかったのかもしれないな、と思ったりした。
 
その後、私たちは父を見送った。さらに実家近くに住み、誰よりも父母をケアしていた妹まで逆に看取ることとなってしまい、母は実家で一人になった。
 
さらに1年半が経ったこの3月、その母が突然、歩行不能になってしまった。喜寿をこえてなお、1日7000歩も歩く日もあったあの母が、「脚が痛くて動けない」というのである。
 
義妹からの知らせに、慌てて実家に行ってみると、本当にそうだった。両手に杖をつき、トイレや寝室にやっと行く。痛みがひどい朝は立ち上がれず、這って移動する姿には、目を覆わないではいられなかった。
 
こうなると、一人での生活は難しい。一方、私の仕事は、パソコンさえあえればまあまあできる。私は実家に泊まりこみ、せめて栄養はしっかりとってほしいと、毎日三食、せっせと作っては共に食べた。
 
それでも、自宅や職場でなければ、できない仕事もあれこれある。そんなときは、冷蔵庫の前に椅子を置き、電子レンジの前に椅子を置き、座って出して温めれば食べられるお惣菜を、冷蔵庫や冷凍庫に作り置きして、実家を空けた。
 
こんなことになるとは思わないから、仕事はみっちり入っている。睡眠時間を削り、家の中を走り回るようにして家事をして、仲間に助けられ、締め切りを伸ばしてもらい、なんとかしのぐ日が続いていた。
 
そんなあるとき、「あれ?」と思った。
 
母が「ごめんね」と言っている。
母が「申し訳ない」と言っている。
 
以前なら、「ありがとね!」と、明るく言い放っているところ。
「仕事が忙しいのに悪いね」と繰り返し言っている。
 
このことに気付いて、ぎょっとした。
 
感謝がデフォルトだった母が、謝罪の人になっている。
しかもその謝罪は、私の行動がさせている。
 
さらに、そうした母に対して、「そうよ、ヘトヘトになりながら、頑張ってやってるのよ」と、偉そうにしている私の心が、確かにある。
 
いやいや、違うでしょう。
 
誰の指図でもない。すべて100%自分で選んでやっていることである。動機は、母に良かれ、というだけだ。
 
それなのに、もともと150センチしかない小柄な母を。
 
脚が痛くて、背骨を伸ばせず、ますます小さくなっている母を。
 
日々の痛みに苦しみ、「このままだったらどうしよう」という不安のなかにいる母を。
 
さらに小さくさせている。
 
いつもの明るい「ありがとね!」を言わせていないのは、私なのだ。
 
そして、さらに気が付いた。私が、母に、「ありがとう」が言えていない。
 
Sさんが、「ありがとうが多すぎて気持ち悪い」はずの私に対し、他社に引き抜かれてからも先輩編集者としていろいろ教えてくれたのは、私の「ありがとう」が伝わっていたからなのではないか、と思い返す。
 
ということは、まずは私が母に、「ありがとう」を言うことだ。
 
なのに、どうしたことか、久しぶりの「ありがとう」は気恥ずかしい。頑固な何かが、私の「ありがとう」を塞いでいる。
 
そこで、まずは準備運動から始めてみた。入院し、手術を受けた母に対して、私に起こったことをそのままメールした。
 
「手術室から無事に出てきたとき、思わず涙出ちゃったよ! ありがとう」
 
コロナで面会謝絶である。会えないのは心配だけど、会わずに感謝できるのは都合がいい。
 
ちなみに、本番は、2週間後の退院のタイミング。なにせ、その直後が母の日だ。
 
そのときは、ちゃんと「ありがとう」を伝えよう。
 
本心は、いてくれるだけで「ありがとう」なんだから。いなくなっちゃったら、困るんだから。
 
「ありがとう」は、気持ち悪くなんてない。
心の内を、そのまま表現すればいいだけなのだ。
 
 
 
 
***

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2021-04-29 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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