私は辛いことがあると着物で街を歩く
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記事:山口 幸美(ライティング・ゼミ日曜コース)
「お綺麗ですね」
見ず知らずの女性に声を掛けられた。私は「ありがとうございます」と言って、笑顔で小さく会釈をする。
この女性が褒めたのは、私の顔ではない。着物だ。
私は辛いことがあるといつも、着物で街を歩く。
私が着物に興味をもったのは、祖母の影響だ。
祖母は小料理屋を営んでいた。カウンター5席しかない小さな店だが、かれこれ20年以上、毎日着物を着て一人で切り盛りしていた。
母は「水商売なんて……」と祖母の仕事をあまり良く思っていないようだったが、私は着物を着て、料理をしたり、常連さんと楽しそうにおしゃべりをする祖母を、かっこいいと思っていた。
一度、祖母に聞いたことがある。
「どうして着物を着るの?」
確かに見た目は綺麗だが、洋服に比べると着るのも脱ぐのも大変そうだし、洗濯機で洗うこともできない。何より着物も帯も高額だ。祖母にとってはマイナス面の方がはるかに大きいように感じたからだ。
祖母は少し笑ってこう答えた。
「着物はね、おばあちゃんの戦闘服なのよ。着物を着ると、背筋が伸びて、よし、仕事するぞって気持ちになれるの。それにね、いつもとは別人になれるでしょう」
確かに、着物を着て店先に立つ祖母は、家でスウェットを着てくつろぐ、のんびり者のおばあちゃんとは別人だった。
クヨクヨ悩む常連さんに厳しく喝を入れることもあれば、うまくいった時には自分のことのように喜び、気前よくお酒をサービスしていた。
悲しい話は豪快に笑い飛ばし、「まぁそんなことより、これ食べて」と頼んでもいない料理を、無理やり食べさせたりもしていた。
どんよりとした空気を抱えて店に入ってきた人も、祖母と話をすると、不思議とどこか吹っ切れたような明るい顔で帰っていった。
小さな店は、いつも満席だった。新しいお客さんが来ると、何も言わなくても常連さんが気を利かせて席を空ける。年上か年下かなんて関係なく、カウンターに座った5人が、祖母を中心に皆でおしゃべりをする。そんな温かい店だった。
店に来る人たちは皆、祖母のことを「お母さん」と呼び、本当の母親のように慕っていた。
そんな祖母が末期の胃がんだと聞かされたのは、私が23歳の時だった。
店にも立てなくなり、心配した常連さんたちが見舞いに訪れたが、祖母は会おうとしなかった。
母は「せっかく皆さん来てくれたのに……」と申し訳なさそうにしていたが、私には祖母の気持ちがわかるような気がした。
着物を着て店先に立つ祖母は、強くて優しい人だった。お客さんを励まし元気にすることが、何よりの生きがいだった。そんな祖母が弱った姿を見せ、皆に気を遣わせてしまうことは、祖母にとっては苦痛だったのだろう。お客さんの前では、いつでも着物を着ていたいのだ。
私は日に日に弱っていく祖母の姿を悲しく思いながらも、最期まで信念を曲げない祖母のことを、やっぱりかっこいいと思った。
葬儀には多くの人が訪れた。
祖母より年上の年配の方から、私より年下の若者まで、とにかくたくさんの人が、祖母の死を悲しんだ。
話を聞くと、そのほとんどが店を訪れたことのあるお客さんだった。人づてに祖母が亡くなったことを知り、駆け付けてくれたという。
「お母さんには、とてもお世話になって……」
皆、口を揃えてそう言った。
たった5席のあの小さなお店で、祖母はどれだけの人を励まし、元気づけてきたのだろう。
葬儀が終わると、皆で祖母の思い出を語り合った。
そこには私の知らない祖母がたくさんいたが、どの話にも強くて優しい着物を着た祖母がいた。
悲しい顔をして葬儀に訪れた人たちは、思い出話をすると皆、笑顔になり、どこか吹っ切れたような明るい顔をして帰っていった。
亡くなってもなお、皆を笑顔にする祖母は、やっぱりかっこいい。
不謹慎かもしれないが、今日は白装束ではなく、一番きれいな着物を着させてあげたかったなと思った。きっと天国で祖母が見ていたら、「そうだ、そうだ」と私の意見に賛成してくれただろう。
遺品を整理していると、たくさんの着物が出てきた。
着物に興味のない母は処分しようと言ったが、私はそのほとんどを引き取った。
シミがついて汚れているものもあったが、祖母がお客さんとの話に夢中になって、うっかり付けてしまったシミだと思うと、それさえも愛おしく思えた。
羽織ってみると、祖母の匂いがした。店先に立つ、あの頃の祖母の匂いだ。
祖母と私は背丈が同じくらいだったので、サイズもぴったりだった。なんだか祖母が、自分の代わりに着てくれと言っているような気がした。
私は今日も、着物で街を歩く。いつもとは別人だ。
背筋を伸ばし、強くて優しい祖母と一緒に、街を歩く。
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