あなたは私を忘れることにした。
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人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
記事:青木恭子(ライティング・ゼミ超通信コース)
朝目覚めるといつも思う。
「これは夢なんかじゃない。現実なんだ」
夫の言動の異変に気付いたのは3年前。
いつも行く旅先で大好物のグルグンの唐揚げを「食ったことない」モズクも「知らない」と言う。冬には、毎年一緒にやっているスノーシューも「やったことない」と言い出した。これはさすがにおかしいと思い始めた。
娘に話すと「早く医者に連れていけ。」と言う。
夫には何度言っても忘れている事すら忘れているので「おかしなやつだなあ」と言うばかり。全然相手にされない。
毎年、特定検診に行く近所の内科医に健診前日に相談に行ったが呑気な医師で「奥さん心配してましたよ、全然お元気じゃないですか。心配性だなあ」と笑っていたと言う。「お前俺のこと言いに行ったんだってな、心配性だって言ってたぞ」と夫が笑った。
八方ふさがり。
昨年の年末にようやく人間ドックを受けると言うので、大急ぎで予約を入れて予め連絡しておいた。人間ドックの専門医は話しがわかる人のようで「この中で、一番問題になるのはコレステロールと血糖値です。血流が悪くなっていると思うから精査しておいたほうが良いでしょうね」と言ってくれたため、難なく脳ドックの予約をすることに成功した。
脳ドックでMRIを撮っても異常が見つからなければまたもとの木阿弥だ。見つかっては欲しくない気持ちと何とか見つかって受診につながってほしい気持ちが交錯する。
幸か不幸かMRIの結果、夫の側頭葉はスカスカだった。
前頭側頭葉変性症、という聞いたことも無い病名を告げられた。指定難病だと言う。
側頭葉は言葉の記憶、前頭葉は人間らしさ。今は側頭葉の委縮が強くてスカスカだが今後は前頭葉に委縮が拡がって来て、人間らしさを失って行くと言う。
しかし夫は「俺はぜんぜん困ってない」「俺はどこも悪くない」病識が無いのが特徴の疾患であるため、拉致が開かない。しかし、脳神経内科医の丁寧な説明で何とか通院だけはすることになった。
「この病気は治りません」
「薬も治療法も無いんですよ」
「余命も予後も厳しいです。覚悟して下さい」
医師の言葉が絶望的に響く。
「これだけスカスカで私達から診れば普通に生活できてるのが不思議です」とも言われた。
夫が趣味の登山をしたりサイクリングをしたり蘭栽培、料理をすることすら主治医に、なかなか信じてもらえない。
「今はしてないですよね」「もうやれないですよね」「(この委縮で)迷わないで帰ってくるわけないです」
しかし夫は本当に日曜日には登山に行くし、山の花を愛で、写真を撮り、ちゃんと帰って来るし、蘭は例年になく綺麗に咲かせているし、サイクリングも50キロ行って来る。私と一緒に行く時だって普通なのに、どうやって信じてもらえるのかと思う。
医師団は夫にリハビリ科で検査をすることにした。
何をやってもひっかからない事が不思議で仕方ない様子であった。だが、標識は一つもわからなかったし、標識と言う概念すら無くなっていた。リハビリと言う言葉は理解できなかった。夫がわからない事を見つけるとリハビリの医師は、大変満足そうである。
毎日、知らない言葉が増えていく。昨日は宅急便という言葉を知らなくなっていた。シャチハタも知らないし、毎週焼いていたパン焼きもいつの間にか、やったことないことになっている。「なんか買ってくるか?」と聞かれたので「サンドイッチ」と答えたら知らなくなっていた。「パン知ってる?」「ああ」「パンとパンの間に、食べ物がはさまってるの。」と説明したら「フルーツ・サンドイッチ」を見つけて買って来てくれた。
いつか私のことも忘れるのだ。
癌のように一緒に立ち向かえる疾患だったらよかったのにと時々思ったりする。そうしたら少なくとも一緒に準備ができる。「今のうちに」が夫の心に存在しないことが私を孤独にする。こうしている時も夫は自分が病気だとは一ミリも思っていないのだ。
でも次の瞬間には自分じゃなくてよかったと心から思い直す。夫が私を忘れる最後の一秒まで私は綺麗で可愛くありたいのだ。
もし忘れたらまた出会えばいい。毎日忘れたら毎日出会う。
もし逆だったらどうだったろうと考える。きっと夫はおろおろしてしまって何も出来ないだろう。一人残され途方に暮れる夫より、私を忘れても一日でも長く生きてくれる夫の方が、容易に想像できる。生きていながら私たちは次第に遠くなって行く。
夫はどこに行ってしまうと言うのか。もうこれ以上遠くに行かないで欲しいと泣く私に今日も夫は「おかしなやつだなあ」と微笑む。
***
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