週刊READING LIFE vol.145

残暑の夕べは標高2,400mの飲み屋で乾杯《週刊READING LIFE Vol.145 きっと、また会える》


2021/11/01/公開
記事:笠原 康夫(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
「遠い飲み屋」といわれる知る人ぞ知る山小屋がある。
それは長野県と山梨県にまたがる八ヶ岳連峰の南端にある。標高2,400mに佇むその山小屋は、登山客、いや、呑兵衛たちから愛されている。
 
昨年の夏の終わり、その山小屋で至福の時を過ごした。あの時の光景、そこに集った人々との語らい、あの高揚感は今も忘れられない。
また、あの時に戻って、あの空間、あの夏の夜に再会したい。そんな夏の終わりの思い出だ。
 
私は30代後半から登山を始めた。それまでの私は無趣味な人間で、体を動かすのはせいぜい会社の仲間や仕事関係の相手とゴルフを嗜む程度だった。社会人になって、ゴルフぐらいできないといけないだろうとの義務感から、20代前半でクラブを握り始めた。
ゴルフは個人技のスポーツでありながら、4人でプレーする社交的なスポーツである。相手によっては、気を遣いながら、1日を過ごすことになる。それが私にとって苦痛だった。
 
30代後半を迎えた秋、会社の先輩社員に誘われて北アルプスの涸沢まで登山に出かけた。そこで紅葉の光輝く鮮やかさに目を奪われた。そして登山の醍醐味を知った。義理でプレーしていたゴルフとは全く比べものにならなかった。それから登山の虜になった。
登山は独りで好きなように、自由気ままに行動できる。それが当時の私には向いていた。登山をしている時は何ごとよりも快適だった。登山こそ自分にあったスポーツだと確信した。自分のライフワークになると思った。
 
それからというもの毎年、春から秋にかけて、全国の山々を巡った。中には難易度の高い登山にもチャレンジした。気を抜くと滑落の危険を伴うような死と隣り合わせの登山も経験した。当時は、より高く、より高度な場所を目指していた。そのほとんどは単独行だった。もともと人と群れることは好まない性格もソロ登山にハマった要因だった。
 
その後、10数年が経った。結婚し、守りの気持ちが生まれた。登山への向き合い方もが少しずつ変わってきた。より高い山、より難易度の高い山を目指すことより、身の丈にあった山をじっくり楽しむ志向へと変化していった。
そして数年前からは新たな目標を持つようになった。それは、毎年、誰か一人でもいい、登山の初心者を連れて登山すること。その初心者の人には登山の楽しさを伝え、登山ファンになってもらうことにやりがいを感じるようになった。
 
2020年夏の終わり、妻と共通の友人のマサ君と3人で登山をすることになった。
マサ君は登山の初心者。ご近所のランニング仲間だ。ランニングといっても、彼の関心ごとは、ランニング後のアフター飲み会オンリーだ。とにかくお酒が好き、宴席を好むアラフォー男子だ。一人っ子のせいか甘え上手。ときどき無謀な行動をするので冷や冷やするが、周囲は彼のことをほっとけない。
そのマサ君から、以前から一緒に登山に連れて行って欲しいと相談されていた。
 
そして、2020年の夏、マサ君と一緒に登山をすることになった。
私は彼の輝かしい登山デビューの後押しをする役割を担う。
行先は八ヶ岳の南端にそびえる編笠山から権現岳の縦走コース。標高2,500mを超える山々を登山する山小屋一泊のコースだ。初心者にいきなり山小屋一泊のコースは少し、ハードルが高いようだが、それには理由があった。その山小屋は知る人ぞ知る山小屋飲み屋なのだ。酒好きの彼にはうってつけの場所だ。せっかくなら彼を喜ばしてあげたい。
その山小屋とは青年小屋である。
この青年小屋は一風変わった山小屋であり、その魅力に憧れを持つ登山者も多い。
その大きな理由は2つ。
1つ目は、「遠い飲み屋」の愛称で親しまれるように夜遅くまで飲み屋さながらにお酒が吞めること。
山小屋とは、不便な空間である。山小屋は登山者の安全を確保することが第一目的であり、宿泊できるスペース、お手洗い、最低限の水などが供される場所だ。
山小屋にはルールも多い。絶対厳守の掟だ。まず、夕飯、朝食の時間を守ること。夜は静かに過ごすこと。山小屋の朝は早い。登山の活動は夜明け前から始まる。よって消灯時刻は大体20時くらいだ。学生風の初心者が消灯時刻を守らず、ベテラン宿泊客に注意される場面にしばしば出くわす。
夜遅くまで飲酒もしていられない。さっと食べて、さっと寝る。これが山小屋の掟。
 
だが、この青年小屋は、普通の山小屋とは異なる。
入り口には、なんと赤ちょうちんがぶら下がっている。そこには「遠い飲み屋」の文字が。
青年小屋は標高2,400mに佇む飲み屋と呼ばれる山小屋なのだ。おそらく日本で最も標高の高い場所にある飲み屋だろう。
夜遅くまで談話室が飲み屋と化す。山小屋なのに数々の酒がそろっている。特に日本酒は全国の名酒がそろう。ウイスキーのボトルキープもできる。
この遠い飲み屋を目指して八ヶ岳に入る登山者が多い。
 
2つ目はこの山小屋のご主人の存在だ。
御年70前後のダンディな白髪のご主人。小柄でスリム。登山ブランドのウェアを身にまとった出で立ちはひと回り以上、若く見える。物腰柔らかく、穏やかな語り口だが、山を通して積み重ねてきたあらゆる経験を彷彿とさせる。まさに山を知りつくした男、といういぶし銀の雰囲気を漂わせている。
その人柄ゆえ、ファンが多い。
 
ご主人は若い頃、都会で働いていたが、人嫌いになり、山に入った。それが、なぜか山小屋で働くうちに人と人のふれあいが心地よくなり、気づいたら山小屋の管理人になっていたらしい。
また、山梨県警の山岳救助隊の隊長、いくつもの山岳ガイド協会の会長など山のエキスパートとしての顔を持つ。
 
このご主人の息子さんが偶然にも妻の職場で働いており、その縁でこのたび、青年小屋に行くこととなった。息子さんから年に一度、青年小屋で開催される夏の終わりのコンサートへのお誘いを受けた。毎年、8月の最終土曜日に、恒例行事として、青年小屋に音楽家を招き、クラシックコンサートを催している。
息子さんから声をかけてもらった時には、すでに予約席は埋まっていたが、特別枠でコンサートに招待してもらえることになった。さらに山小屋の部屋は全室予約済みだが、テントとシュラフを貸し出してくれることになった。ご厚意に甘えて八ヶ岳登山を計画することにした。
 
登山当日を迎えた。
その日の私の目標はマサ君に無事、登山デビューを果たしてもらうこと。加えて登山の魅力を存分に感じてもらい、登山好きになってもらうこと。欲を言えば、楽しんでもらう一方、登山の基礎的なルール、コツ、心構えなどもたくさん伝えようと思った。
 
登山口を出発した。マサ君と会話をしながら歩を進めた。
ペースを確認しながら一歩一歩進む。
登山のコツについて、レクチャーしながら進んだ。
「水分はこまめに摂ってね。汗をかいた分くらいをちょびちょび飲むのがいいよ。生ビールのようにがぶ飲みは厳禁だよ」
「歩いている時は暑いけど、休憩の時は思わぬ体が冷えるからその都度、上着を着た方がいいよ。体を冷やさないように気を付けてね」
小姑のように口うるさいかと思ったが、これも彼のため。と自分に言い聞かせた。
そして、山小屋の掟、ルールについても話した。
「よく聞いといてよ。山小屋に着いたらまず、テント張りから始めるよ。まずは場所取りから。大事なのはテントを張る場所。岩や石の無いなるべく平な場所を選ばないと安眠できないんだ。いい場所は早くいかないと先に着いた人に取られてしまうんだよ」
「山小屋の食料とかお酒はすべて山小屋の人がボッカしているんだよ。ボッカっていうのはつまり人が背負って運んでいるってこと。だから下界より値段が高いんだ。350の缶ビールも500円くらいかな。山小屋の酒は貴重なんだよ」
「飲みすぎは気をつけた方がいいよ。標高が高いと酔いやすいんだよ」
鎖場が出てきた。初心者には少し苦難かもしれない。
「これを乗り越えればおいしいお酒がまっているよ。気を緩めちゃダメだよ」
 
6時間かけてようやく青年小屋に到着した。
すでに色とりどりのテントでテント場は埋め尽くされていた。
だが、我々が使用するテントはすでに設営されていた。さらにテントの中には、なんとふかふかの布団が敷かれていた。
普通はせいぜい簡易マットにシュラフで寝る。地面からの冷気に耐えながら、固い床に寝そべるのが、本来のテントなのだが、今回のテントは畳の部屋で寝るのと同じような感覚だ。
どうやら息子さんの紹介枠ということで特別招待客の扱いになっていたのだ。
 
夕飯を済ませて、夜6時を迎えた。いよいよ年に一度の夏の終わりのコンサートの時間だ。
山小屋の食堂がこの一夜はコンサートホールと化した。30名程度が入り、ホールは満杯になった。コロナ禍で窓は全開。外気は5℃、標高100m上昇すると気温は0.6℃下がると言われるだけある。
クラシックコンサートは、ピアノのソロ演奏の後、バイオリンの演奏が続いた。
そして、番外編として、ギターとボーカルのご夫婦のデュオの演奏も興じられた。
日本酒を飲みつつ、体を温めながら演奏に聴き入った。
窓の外に目を遣ると天空にはキレイな星空が見えた。空気がキレイな山小屋では鮮やかに星が見える。
 
コンサートを終えると、そのまま宴会に突入した。
全国各地の日本酒の銘酒が並んでいた。都心で飲んだら一杯いくらだろう、と思っていると
ご主人が一升瓶を片手にお酌にきてくれた。ご主人は脇から惜しげもなく気前よく注いでくれた。注いでもらうがまま、どんどん吞み干した。
何杯お代わりしただろう。ふと横をみると上機嫌になったマサ君が他の登山客と会話が弾んでいた。
 
至れり尽くせりのサービスだった。会員制バーのような空間だった。
山小屋までの道中、私がマサ君にさんざん説明していた山小屋の掟とは大きくかけ離れた空間だった。
 
ご主人は、いろんな話をしてくれた。
当時の皇太子さま(令和天皇)が宿泊された時のお話も笑顔で楽しそうに語ってくれた。登山がご趣味である皇太子さまがお泊りになった際、当時子供だった息子さんが皇太子さまの膝の上に座り、記念撮影をしたことを嬉しそうに宿泊客と同じ目線でフランクに話してくれた。
その息子さんと妻が同じ職場で働いていることに不思議な縁を感じた。
 
気づくと小屋の中は一体感があり、みんながわいわい楽しみながら談笑していた。
標高2,400mに佇む天空の飲み屋で過ごした夏の夜の幻のようなひとときだった。
 
かつて青年小屋のご主人は都会の生活から脱出しようと山に入った。だけど山小屋で人と人のふれあいに惹かれて山小屋の管理人になった。
私が登山にハマった心境と重なった。私も煩わしい人と関わりを避けて登山に没頭した。それが、数年間、登山を続けるうちに人とのふれあいが恋しくなった。そして来るべくして青年小屋の夜を迎えたのだと感じた。
 
翌朝、4時に目が覚めた。周囲の身支度やテントを片付ける音で目が覚めた。気持ちよく目が覚めた。ふかふかの布団で自宅にいるような感覚でぐっすり眠れた。昨夜のお酒のほど酔い加減で熟睡できたようだ。
 
朝ご飯をゆっくり済ませ、遅めに青年小屋を出た。
青年小屋の前には、出発前の宿泊者が10名ほど出発の準備をしていた。昨夜の余韻に浸りながら、青年小屋との別れを惜しんでいるかのようだった。
ギター演奏のデュオのご夫婦も帰り支度していた。大きなギターケースを背負っていた。少し深酒したような様相だった。
「えっ、もしかして背負って下山するんですか?」
「毎年、恒例だから慣れてますよ。今日中に下山できればいいから、のんびり行きますよ」
そう、緩やかな笑顔で応えてくれた。
山の時間がゆっくり流れていた。
 
無事、下山し、麓の温泉で汗を流した。
帰りのサービスエリアで食事をしながらマサ君によく言い聞かせた。
「言っておくけど、今回の登山は特別な登山だからね。あんなに深酒できる山小屋はないんだからね」
「わかってますよ~、でもクセになりそうですね~」
彼は満身の笑みで答えた。
この日、マサ君の登山デビューをしっかりと見届けることができた。ひとまず目標を達成できた。
そして、彼は登山好きになったことと同時に「遠い飲み屋」のファンになったことだろう。
 
改めて思った。単独行もいいが、やっぱり仲間と同じ苦労をして、同じ景色を見て共感できる登山を目指そう。
 
「遠い飲み屋」は、夏の終わりのコンサート以外にも、初夏5月は採れたての山菜てんぷらをつまみに呑める山菜祭、10月はほうとうや冷酒を楽しめる八雷神祭を催しているという。
さて、次は誰を山に誘ってみようかな。今宵は、スマホの画面で青年小屋の思い出の写真を振り返りながら秋の夜長を楽しんでいる。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
笠原 康夫(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

岐阜県生まれ。東京都在住。
ふとした好奇心で21年4月開講のライティング・ゼミに参加。これがきっかけで、気づいたら当倶楽部に迷い込んでしまった50歳サラリーマンです。謙虚で素直な気持ちを忘れずに、実践を積んでまいります。

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2021-11-01 | Posted in 週刊READING LIFE vol.145

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