青天に霹靂を聞いた日~あるいは虎視眈々の晩餐~《週刊READING LIFE Vol.153 虎視眈々》
2021/12/27/公開
記事:黒﨑良英(READING LIFE編集部公認ライター)
「青天の霹靂」という言葉がある。
晴れ晴れとした空に突如として雷鳴が轟くような、突発的に起こる事変や大事件を意味する。
その「青天の霹靂」が、我が家に起きた。
その日の昼、正午のチャイムが鳴る少し前であったと思うが、玄関のチャイムが鳴らされた。
母が出て行くと、案の定、宅配便であった。
この時期は特に宅配されるものが多い。いわゆるお歳暮というやつだ。こういう古き良き習慣が残っているのは、まことにありがたい。ほくほくである。
もっとも、これを我が家では「桃が化けた」と言っている。
我が家は、広くはないが畑を持っており、父母が祖父母から引き継いだその農園で、桃を育てている。
もちろん専業ではない。祖父母亡き後、畑を荒れるままにしておくわけにもいかないので、二人は退職後、あまり多くはできないが、桃を育て続けているわけである。
これを夏、お中元として、親戚や知り合いに送るのである。
無論二人は、桃栽培においては素人である。
だが、品種の良さに加え、なんと言っても桃である。他県の人にとっては高級品だ。
これが大いに喜ばれる。
そこで、そのお礼として、お歳暮には様々なものが送られてくるのである。
私も小さい頃は、それが洗剤やコーヒーのセットならば落胆し、菓子の詰め合わせなどであれば素直に喜んでいた。とてもわかりやすく現金な子どもであった。
ありがたいことに、最近の主流は食べ物である。
定番のハムから高級菓子の詰め合わせ、そう「マカロン」なんぞという田舎人にはおしゃれ過ぎる菓子なんかもあった。やはり都会にいる方のセンスは違うものだ。
その中で、毎年海産物をいただく方が居られる。
このとき届いたのはこの方からのお歳暮であった。
しかし、いつもと違って小ぶりだ。
さっそく中をあらためてみた。
全面を覆うように大きな保冷剤が置かれている。それをどける。
中のものを確認した瞬間、電撃走る。
いや、確かにドンガラガッシャーンと、青天の霹靂が……頭のどこかに雷が落ちた音を聞いた……かもしれない。
そこには「A5ランク黒毛和牛」というラベルの文字と、茶色い笹に包まれた“ソレ”が鎮座していた。
一瞬我が目を疑う。
が、ラベルには確かにその文字が書かれていた。
「A5ランク肉」である。平民にとって、世界のどこかにあるという“回らない寿司”と同程度の至宝。よもや本当に存在していたとは……
確認した母と私は一気に語彙力を失い、ただひたすら「すげー! すげー!」と連呼するのみだった。
「A5」である。決して「英語」ではない。ましてやフランス語でもない。
れっきとした日本語で「A5黒毛和牛」と記してあった。
どんだけすごいか正確には分からないが、つまり、どんだけすごいか分からないほどすごいのだろう! 語彙力!
かくして、その日の晩餐のメニューは決まった。
“すき焼き”である。
しかも、某どんぶりチェーン店の定食とは訳が違う。
もう一度言おう。
「A5ランク黒毛和牛」である。
私はほくほくとして、休日返上の仕事場へ向かった。
さて、帰ってきてすぐのことである。
ここでちょっとした事件が起こる。
母が庭先に出ていて、急いで車を出そうとしているのである。
曰く、
「あれはすき焼き用の肉ではない。焼き肉用の肉だ!」
私は一瞬キョトンとして頭を整理した。
申し訳ないが、ついにボケたか、母も高齢だしな、とも思った。
が、脳裏に稲妻のように冷蔵庫の光景が走った。両開きの冷蔵庫だ。その右の扉側、調味料の棚、その一番右奥。
先日、ほぼ空に等しい焼き肉タレの容器を入れはしなかったか。
案の定、母は続ける。
「焼き肉のタレが家にはないんだ。買ってこなきゃ!」
その通りだった。これは一大事である。ここもまさに青天の霹靂。
焼き肉のタレ。それは、いわばドレスである。
確かに「A5ランク肉」は無敵だ。それそのものが芸術的な肉体だ。肉だけに。
だが、本当の芸術的肉体は、それにふさわしいドレスを身にまとうことでより完璧となる。
そう、往年の映画でも言っていた。
「飛べない豚はただの豚だ」
そうだ、焼き肉のタレがない「A5ランク肉」は、飛べない豚、いや、「飛べない牛肉」だ!
……あ、いや、その通りなんですけれど、つまり、一言で言えば必要な焼き肉のタレが無かったのです。
これはいけない、と私は母をそのまま愛車に乗せ、その前日にオープンしたばかりのチェーン薬局に向かった。
探すのに少々手こずったが、それはあった。
その日、我が家が選んだのは、「ステーキ用醤油ダレ」と「おろしポン酢ダレ」の2種である。
会計を済ますと、一目散に帰宅。儀式、もとい、調理に取りかかった。
といっても、相手は「A5ランク肉」である。小細工はいらない。
卓上コンロを用意し、鉄鍋を載せ、シンプルに焼く。これに限る。
包んであった笹を開く。きれに切りそろえられた肉の輝きがそこにあった。
白い。これが霜降りというやつだ。
私は百人一首にある、
“心当てに折らばや折らむ初霜の置き惑わせる白菊の花”
という歌を思い出した。
咲いている花を適当に折ってみるが、霜から白菊か分からないほどの白さだよ、くらいの意味だろうか。
私は、そのとき、肉のなかに白菊を見た気がした。
まずは付属のラードを塗る。黒金の表面は、瞬く間に照り輝いた。
その上でいくつか野菜を焼き、火が通ったところで、別皿にとり、場所を空ける。
そこに、白菊の肉を置く。
最初は小さく遠慮がちに、厳かに、而(しか)して徐々にダイナミックに、肉の焼ける音がする。
これが、A5ランク肉が焼ける音。それは、まさしくハーモニーであった。妙なる音楽を聴いているようでもあり、雄大な自然の音を聞いているようでもあり、あるいは、命が輝く音でもあったのかもしれない。
私は鉄鍋上の肉を見る。
その場にいるのは父と母と私。
そのとき、私たちの目は間違いなく“虎”だった。
獲物を狩る時の“虎”だった。
宇治拾遺物語に、「虎の鰐(わに)取りたること」という話がある。
虎は前足の一蹴りで鰐=サメをとらえる、という話である。それこそ熊が鮭を捕らえるように、ざっぱざっぱと陸に蹴り上げていくのである。その様子を見た商人は、生きた心地がしなかった、とある。
今なら分かる。
我らがその瞳のように虎であるならば、鰐どころか牛だって捕らえられるだろう。
我々の虎の目は、鉄板上に釘付けになっている。
母が落ち着いて肉を裏返す。ほどよく焼けた肉肌(?)が見えた。
そうすること数秒、いや数分だろうか。
長いような短いようなそんな時間が流れた。
そしてその時は合図も告げずにやってきた。
母の菜箸が肉を皿に載せる。
1枚、2枚、3枚。
もちろん、しっかり3人分である。
私は落ち着き払って、箸を進ませる。
1枚つかむ。
タレにつける。最初はステーキ用醤油ダレからだ。
そして、思い切って一口に、口に入れた。
そして、私は再び霹靂を聞くのである。
口から電流がほとばしり、体中に感電していく音を聞いた……ような気がした。
うまかった。ただひたすら美味しかった。
もしや天上の食物ではないか、と疑った。
だが、それは紛れもなく地上の食物だった。
大地に根付き、大地の加護を受け、大地から輝きをもらった、大地が育てた命、光り輝く命であった。
それを、私はいただいた。いただいたのだ。
私は感謝した。
食べることは感謝と同義である。
食物を食べられるということは、私が今、ここに生きていることの証である。私を生かしてくれた人、物、事、それらがあったことの証である。
そして私を生かしてくれた命があったことの証である。
私はそれに感謝し、涙した。
語彙力はもちろん低下している。
ひたすら「すげー!」と「うめー!」を繰り返していただけであった。
私は感謝し、満足し、一旦冷静になって思った。
「こういうのを毎日食べていたらバカになるな」
例えば、私が超富豪で、毎日A5ランク肉を食べられる財力があるとしよう。
だが、実際にそんなことを続けていては、絶対に“脳”がやられる。あれはやばい。
月並みな発言だが、高級品はたまに食べるから良いのである。
しょっちゅう食べていたら、飽きることはなくても、「バカになる」と、何となく感覚的だが思ったのだ。
今回のこの青天の霹靂、あるいは虎視眈々獲物を狙った一夜の晩餐。
人生であと1度くらいは味わってもバチは当らないかなぁ、と淡い期待を込めながら、私は食後のほうじ茶をすすった。
□ライターズプロフィール
黒﨑良英(READING LIFE編集部公認ライター)
山梨県在住。大学にて国文学を専攻する傍ら、情報科の教員免許を取得。現在は故郷山梨の高校に勤務している。また、大学在学中、夏目漱石の孫である夏目房之介教授の、現代マンガ学講義を受け、オタクコンテンツの教育的利用を考えるようになる。ただし未だに効果的な授業になった試しが無い。デジタルとアナログの融合を図るデジタル好きなアナログ人間。好きな言葉は「大丈夫だ、問題ない」。
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