鯛焼物語《週刊READING LIFE Vol.157 泣いても笑っても》
2022/02/14/公開
記事:篠田 龍太朗(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
——最初に覚えているのは、物凄い熱。それから、黒っぽい焦げ目が身体に刻まれたということ。それを確かに感じながら、あのとき俺は生まれ落ちた。
——この世に、意思をもって。
「あつ、熱、熱っっっっ!!!」
店のおやじはこっちのほうを一度見た。そして妙な間があいて、もう一度こちらを見た。それから自分の目の前で起こっているこの事態を徐々に理解して、口を開けたままその場にへたりこんだ。
埒が明かない。俺はもう一度叫んだ。
「オイ、オイ、おっさん、……熱いわ!!! 早く!! 助けろ!!」
おやじはそのへんの工事現場にいそうながっちりとした体躯に似合わず、驚愕と困惑の表情を浮かべて、ようやく口を開いた。
「……なんで……たい焼きが……、しゃべってるんだ……?」
蚊の鳴くような、小さな小さな声だった。
「ああーもう、頼りにならんのう、もうええわ!!」
おやじはもう役に立たない。仕方がない。覚悟を決めた。
腹をくくって、というよりは腹から尾ひれまで目いっぱいしならせて、振り子のように反動をつける。
俺は鉄板の外に向かって飛び跳ねることにした。
「おりゃあああーーー!!!」
我ながら、気迫のこもった美声であったと思う。
……跳ねる。
うまいこと、鉄板の外の紙皿の上に着地した。
尾びれをしならせた反動で、少しだけ腹の部分が裂けて黒い粒餡が飛び出した。まあいい。あのまま鉄板の上で焼け死ぬことを思えば、よっぽどマシである。
「と、跳んだ……」
店のおやじは、今にも小便をちびりそうなぐらい震えて小さくなって、腰を抜かして動けなかった。
顔面蒼白、目には涙が浮かんでいる。
俺はおやじに一瞥をくれて、紙皿から遠めにさっきまでいた鉄板のほうを見る。
「何や、俺だけかいな?」
鉄板の上には、俺と同じ形のたい焼き君たちが二十ばかり焼かれていた。言ってみれば、同級生みたいなもんである。餡子の甘い匂いが、むわっと立ち込める。
けれどもおやじが腰を抜かして動かないので、このままでは焦げて炭になってしまいそうだ。だんだん、煙が黒っぽくなってきた。
二十匹の同級生の中で、意思を持ち話すことができるのはどうやら俺だけのようだった。
とある地方都市の下町の、地下鉄の駅の3番出口。
それを出てすぐのところにある、古い賃貸アパートの1階部分の猫の額ほどの広さの店。そこが、「たい焼き・たこ焼き 井筒屋(いづつや)」である。
井筒屋のあたりは、たい焼き屋をやるにはなかなか向いた場所のように思われる。
目の前は私大のサテライトキャンパスが入った大きなビルがあり、道を挟んで少し歩くと、ターゲットを中高年女性いっぽんに絞った大型のデパートが建っている。井筒屋のとおりを七、八分ばかり南に進めば、進学実績で全国的にも有名な、超名門の中高一貫校だ。朝夕の井筒屋の前は、電車通学で登下校する中学生と高校生でいっぱいになるのである。
そんなわけで、ちょっとしたテーブルや椅子もあり、店の中でくつろぐこともできる井筒屋は、学生や近隣の老人たちの憩いの場として、いつもわりあい繁盛していたのであった。
相も変わらず、俺とおやじは向かいあう。
「おい、なあ、おっさん。いい加減、何かしゃべり!」
「ああ……」
ようやく表情は落ち着いてきたかに見えるが、それでも目はうつろ。おやじはいまだ腰を上げることなど到底できそうにない。
可哀そうに、俺の大事な同級生君たちは、もうみんな真っ黒である。
「おっさん、名前は?」
「……五郎……」
ちょうど夕暮れどきである。
いつもなら学校帰りで小腹をすかせた中高生たちの、買い食いで賑わう時間帯である。しかし幸か不幸か、今日は客がひとりも来なかった。
とっぷり日がくれて、今日の井筒屋は店じまいとなった。
結局、五郎は小一時間ほど腰を抜かしてから、よろよろと立ち上がって店のシャッターを下ろしはじめた。
俺は返事もしてくれない五郎とやらに愛想を尽かし、退屈も相まってうとうとと眠り込んだ。
目が覚めると、頭上に見えたのは違う天井であった。そして光が屈折して、景色が濁って見える。
古びたアパートのこたつテーブルの真ん中で、俺はさっきの紙皿に横たわっていた。上からはラップがかけられているようだ。
俺の動きを見てとって、「起きたか?」と五郎が声をかけてきた。
五郎は風呂上りの湯気をまとって、薄いトレーナーとスウェットに着替えていた。俺が話しかけてくるという事実をようやく受け入れることができたようだ。全く、なんとも飲み込みの悪い奴である。
「ああ、起きた。あんた、もう俺が怖くないんか?」
「最初は腰抜かして小便ちびったけどな。まあ落ち着いたよ。それにおめえ、別に悪い奴じゃなさそうだしな」
表情も、覇気のあるものにもどっている。本当は威勢のいいおやじなのだろう。
「俺は飲むけど、別にいいよな」
五郎は冷蔵庫から缶ビールを一本取り出した。ちらりと見えた冷蔵庫の中には、まともな食い物はほとんど何も入っていないようだった。
五郎が缶のプルタブを引き起こす。
プシュっという、小気味よい炭酸の音。
「おっさん、あんた、家族は?」
俺はようやく話し相手ができて退屈しのぎができることに喜びを感じながら、何となく答えがわかりきったような質問をひとつしてみる。
「ああ、一人だよ」
「まあ家族はいいとして。女は?」
「……うるせえ」
何となく聞かれたくないことを聞かれたような、そんな五郎の態度だった。
俺は空気が読めるほうなので、少し黙ってやる。
五郎はビールをグッと飲みほして、どことなくほろ苦い表情になった。
そして一息ついてから、話し始めた。
「もう二十年になるかな。俺は高校を出て、近所の工務店に就職したんだ。ドカタってやつだな。で、男ばっかりの職場に、ひとりだけ事務のお姉ちゃんがいた。三つ年上の、さっぱりしたいい娘でね。こっちは十八の世間知らずな坊主だろ? 書類の書き方なんか知らねえ。親方に頼まれて、わけも分からずに間違った伝票なんか持っていくと、アンタ書類の書き方ひとつまともに知らないのかいなんて、よく怒られたもんでさあ」
俺はえらい昔話をはじめてきたものだ、と思いながら、五郎の話に耳を傾ける。
「でも、怒られても嫌味はなくてな。いつも弟みたいに可愛いがってくれるのが嬉しかった。ジジイばっかりの職場であの子も出会いはないし、俺も工業高校だったからな。女なら誰でもみんな可愛く見える。……ちょうど良かったんだろうな。二十一のときに、その子と付き合ったのさ」
五郎は、さっきより多めのビールを飲み込む。
ビールだけでは出ないような、やけに苦々しい表情だ。それが俺には気になった。
「それから二年ぐらい付き合って、あの子に結婚してくださいと言った。周りも早くに嫁さんもらう奴ばっかりだったしな。あの子はとっても喜んでくれて、結婚することにした。……その後だよ。俺は嫁と高校のツレとそいつの女と、四人で海水浴に行ったんだ。俺とツレはどっちが遠くまで泳げるか競争するのに夢中になって、小一時間泳いでから波辺に戻った。そしたらツレの彼女が泣き叫んでる。あの子がいない、いないってな。見渡せば警察やら消防やら、怖い顔した大人たちが集まってる。あん時ゃ血の気が引いたな……」
そこから先は、あまりにも悲しい話の数々だった。
五郎の奥さんは離岸流(りがんりゅう)とよばれる、沖に向かう潮の流れにふいにつかまり、そのままあっという間に流されていったであろうということ。
とうとう、奥さんは見つからなかったということ。
それから五郎は何も手につかなくなり、工務店の仕事もやめてしまって、しばらく家にこもっていたということ。
「辛かったな……」
さすがの俺も、そんな言葉をひとつかけてやるのが精一杯であった。
「……いや、いいんだ」
新しいビールの缶を取り出しながら、五郎はこちらを気づかうように言う。
「それで、なんでたい焼きを?」
いまの店はうまくいっているように見える。少しでも話題が明るくなればと、俺は話のつづきをせがんだ。
「しばらくボーっとしていたら、金がなくなってきた。さすがに働こうかと思っていたら、近所のスーパーの中の、たい焼き屋の求人があってな。これなら俺でもできそうだと思って、そこで働き始めたわけよ」
五郎の顔に、少し赤みがさしていた。
「……たい焼きは、俺に合ってた。焼いてる間は焦げないように一生懸命鉄板に向き合う。その間、死んだ嫁さんのことや、あの日の海のことを思い出さなくて済むんだ。それに店はほとんど一人で回すから、誰にも気を遣わなくていい。それでいて子どもや家族連れがやってくるだろ? 俺のたい焼きを頬張って、喜んでくれたりするわけだ。ああ、まだ俺にも居場所があるんだって思えて、嬉しかったな……」
「それで、いまの店を出したわけかい?」
俺はやっと相槌が打てるようになって、ほっとしながら聞いた。
「そういうことよ。ありがたいことにな、前の工務店の社長が、ずっと俺のことを気にかけてくれててな。俺がたい焼きやってるって聞きつけて、だったら店やるのにちょうどいい場所を探してやるって言ってくれたんだ。それであそこを見つけてくれて、開業資金も手伝ってもらって、いまの井筒屋ができたってわけだ」
話を聞き終わると、俺は一人の男の生きざまに触れた気がして、かあっと胸が熱くなった。腹の底の、あんこがとろけそうな気持ちだ。
たまたま俺は意思を持ち話もできる、一風変わったたい焼きとして、こうしてこの世に生まれ落ちたわけだが、この男のところでよかったと心から思えた。
「少しでも、この男に愉快な思いをさせてやりたい」
俺の生きる道は、決まった。
五郎は、おれを「タイスケ」という名前で呼ぶようになった。安直な発想だが、俺も決して悪い気分ではなかった。
それからというもの、俺は毎日アパートで五郎の帰りを待った。
退屈は嫌なのでテレビをつけっぱなしにしてもらった。それを見て、人間の世界のことについて学びながら過ごした。
五郎が帰ってくると、今日の商売の話や店に来た客の話をしたり、一緒にプロ野球のナイターを観たりして過ごした。寂しさが紛れるからか、日に日に五郎は明るく饒舌になっていった。俺もそんな五郎の姿を見るのが何よりも嬉しかった。
運命の分かれ道は、五郎のところに来てから、確か六日目の朝だった。少し早めの梅雨入りを予感させるような、五月の終わりの雨の日のことであった。
身体が、重い。そして妙な臭いがする。
頭を起こして、俺は身体を眺める。
俺の身体が、白っぽくなっている。ぽつぽつと、黒い斑点もある。
……カビだ。
いくら俺がこの世でいちばん優秀なたい焼きだといったって、所詮は食い物の端くれでしかなかった。
五郎は俺を大事に思っていつもラップをかけてくれていたし、夜は冷蔵庫にしまってくれたが、食い物には命の終わりというものがある。人間はそれを、ショーヒキゲン(消費期限)というらしい。
そして多分、俺はとうに消費期限とやらを過ぎていた。
最期のときが、近づいていた。
——「それでは、次は海の生き物特集でーす!」
俺は思わず、付けっぱなしのテレビに目をやった。キラキラと輝きをはなつ、この日本という国の近海の住人たちの暮らしの映像が紹介されていた。
ホタルイカ、サヨリ、イワシ。どれも海の中で美しくきらめいて、そして優雅に泳いでいる。
イワシの紹介が終わり、次の映像に切り替わる。
——次は、マダイの様子です!
刹那、俺はテレビに釘付けになった。
桜色の光を放ちながら、そいつは超然として海の中を舞っていた。
他に敵など存在すらしないかのような、海の王者たる堂々とした面構えであった。
俺は、脳内で五郎に聞いた話を何度も何度も繰り返していた。
「いいか、タイスケ。そもそもお前みたいなたい焼きってのはな、鯛っていうめでてえ高級な魚をかたどった、縁起の良い食い物なんだよな」
しばらく五郎の言葉を反芻させてから、俺はある決意を固めた。
いつものように19時すぎに、五郎がアパートに帰ってきた。
「おい、おっさん」
俺は切り出す。
「おお、どうした?」
五郎は返事をした。いつもと同じような返事だ。
今からこの日々に終わりを告げねばならないと思うと、心が痛い。
「おっさん、なあ。俺の身体、見てくれ」
「なんだ、急に」
五郎がこちらに近づいてくる。ああ、別れのときが容赦なく、迫ってくる。
五郎は俺の身体を見て、ひどく落胆した様子だ。
「……おい、おい、何でこんな一気にカビてんだ? なあ、おい。大丈夫か!?」
五郎は俺を載せた紙皿に向かって、叫ぶ。
「なあ、おっさん、聞いてくれや。……頼みがあんねん」
五郎はこちらを、じっと見つめる。
「見てわかるやろ? 俺はもう、永くないねん。だったら最後に、海に連れてってほしい。今朝テレビで見たんや、俺の先祖の、マダイさんが泳ぐところを」
俺は、またしても大事なものを海に奪われる五郎の心情を痛いほど理解しながら、つづけた。
「俺は……、最後はマダイさんみたいに泳ぎたいねん。それでや、海の底まで行って。……まだ見つかってないんやろ? おっさんの嫁はん、俺が見つけ出したる」
しばらく呆然としたあと、五郎は「タイスケ」、とだけ俺の名前を小さくつぶやいて、その場にがっくりとうなだれた。
五郎にとっては、やっと得ることができた、幸せな家族との時間であった。
タイスケと奇妙な出会いを果たしてからというもの、五郎ははじめてアパートに帰るのが楽しみになっていた。今日の商売の話をして、ビールを片手にああだこうだと言いながら、タイスケと一緒にテレビでも見て、家族団欒というやつをやる。このひとときが、彼の生涯においては至高の幸せだったのである。
しばらくしてから、五郎は「……タイスケ、分かった」とだけ告げた。
その大きな背中には、どこまでも寂しさが広がっているようだった。
俺と五郎は、太平洋の沿岸の海水浴場の横の、防波堤のところまでやってきた。
梅雨の前の、夜の海だ。
吹き付ける風が、少しだけなまあたたかい。
五郎は包みの中からそっと俺の身体をつまんで取り出しながら、つぶやく。
「ほんとにこのビーチには、ロクな思い出がねえよなあ……」
カビだらけの白んだ身体を少しだけくねらせ、俺は言う。
「おっさん、ありがとうな。楽しかったで」
できるだけ俺が遠くの深いところまで行けるように、五郎は全力で腕を振りかぶった。
「じゃあな。お前といれて、楽しかったよ」
俺の身体は五郎の手を離れ、宙を舞う。
あの鉄板の上に生を受けて、五郎の身の上話に涙して、そして毎晩二人で声を出して笑い合って。
五郎は強がっているけれど、きっと心の中で泣いているだろう。あのアパートにひとり帰ってからは、大声で泣くだろう。
俺だってそうだ。まさかたい焼きの俺に、こんな泣くなんて感情があるなんて、思わなかった。
水面が、すぐそこまで近づいてくる。
ありがとう、おっさん。
俺は今から、桜色にきらめくマダイさんになる。
泳いで泳いで、必ずあんたの嫁はん、見つけてやるわ。
ポチャン、という音がした。
俺の身体は、波の底へと沈んでいく。
ひやりとした感覚が、身体中を包んだ。
今度の噂を聞きつけて、俺と店のおやじが喧嘩しただとか、それで怒った俺が海に飛び込んだとかのたまう輩がいるらしいが、それは嘘だ。
俺と五郎のおっさんは、紛れもないひとつの家族だった。
ちなみに。
俺はこのあと海の底まで泳いでいって、そこでとっても不思議な体験をすることになる。
……でもそれはまた、別の話しや。
※この小説はフィクションです。
□ライターズプロフィール
篠田 龍太朗(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
鳥取の山中で生まれ育ち、関東での学生生活を経て安住の地・名古屋にたどり着いた人。幼少期から好きな「文章を書くこと」を突き詰めてやってみたくて、天狼院へ。ライティング・ゼミ平日コースを修了し、2021年10月からライターズ俱楽部に加入。
旅とグルメと温泉とサウナが好き。自分が面白いと思えることだけに囲まれて生きていきたい。
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