週刊READING LIFE vol.163

夜の朗読会《週刊READING LIFE Vol.163 忘れられないあの人》


2022/03/28/公開
記事:黒﨑良英(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
常夜灯が照らし出す光景は、絵本で見るサーカス小屋のようだった。
そこには大歓声も、まばゆいスペクタクルもないが、代わりに、心地よい静謐と、幻想的な輝き、そして何より、“物語”があった。
 
幼い私たちは、確かに夢の世界にいたのだ。

 

 

 

かれこれ40年ほど前、私は小児科専門の病院に入院していた。
少子高齢化の現在においては信じられないかもしれないが、まるまる1棟、小児科の病院というものが、存在していたのである。
 
私は東京にある小児病院へ、およそ3年間入院をしていた。それも小学校に上がる前の、3,4歳の頃である。
 
大人になってでさえ、病院暮らしというのは酷なことである。子どもにとって、しかも年端もいかない幼児にとっては、大いにきつい。
 
何より、親から引き離されてしまうのがつらかった。
毎日の面会時間を、今か今かと待ち望んでいた。
 
毎回の食事も病院食なため、味は期待できない。特に私は腎臓の病気の関係で、減塩食になっていた。
おやつだってそんなに大したものではない。ポテトチップスを袋から出して、さらに小袋に入れたものだったり、フルーツの缶詰を開けたものだったり……当然ながら量は多くなかった。
 
ただ、そんな入院生活以外を知らない子どもである。それらが当たり前になってしまい、特に悲惨さを感じることはなかった。
同年齢の子どもがたくさんいた、ということもあるが、何より、看護師さんたちが世話をしてくれたおかげであっただろう。
 
前置きが長くなったが、私にとって忘れられない人は、この看護師さんの一人である。
 
看護師(当時は女性の方を「看護婦」、男性の方を「看護師」と呼称していた)は、多彩な面を持つというが、こと、小児科において看護師の役割は多かった。
 
看護師としては当然で、兄弟でもあり、親でもあり、また、教師でもあった。
 
小児病院は、子どもだけの空間である。
放っておけばやりたい放題しそうな年頃の子どもが集まっている。
 
一緒にいる看護師は、日々の生活の中で規律を教える。病院とは言え、小さな社会。そこで暮らすためのルールを教え、時には退院したときに困らないようにマナーを教える。
イタズラが過ぎればしっかりと叱り、悪いことをすると罰を受ける。
 
私も、今では自分でも信じられないが、相当な悪ガキだった。
なるべく怒られないように、でも怒られるすれすれのことをやっていた、ような気がする。
 
子どもというものは、ある意味、生きるのに必死だ。
この人は怒る人、この人は怒らない人、この人はここまでしたら怒る、なんて、「自分にとっていい人」を見極める。
 
そして、“あの人”は、どの子にとっても「いい人」だった。文字通りの「優しい人」であった。何より、子どもたちに必要なものを知っていた、と思うのである。もう、何年も前のこととて、顔もうろ覚えで、名前も思い出せない。若い方だったとは思うが、それこそ子どもの時の基準だから何とも言えない。
 
その看護師さんが宿直になると、子どもたちは決まって喜ぶ。その夜は、とても素敵なことが約束されているからだ。
 
午後9時の消灯時間、全ての病室の電気を消し、入り口の常夜灯をつける。
すると、看護師さんは、「プレイルーム」と呼ばれる共同の食堂みたいなところから、絵本を何冊か持ち出し、私たちの部屋へやってくる。
そうして、丸椅子を常夜灯の下に置き、絵本を開き、読み聞かせてくれるのだった。
 
「さあ、今日は何を読もうか」
 
もったいぶるように、数冊の絵本を眺め出す。
 
私たちは、てんでに自分の好きな本のタイトルを言いあう。
でも、そんなこと、本当はどうだっていい。本は何だっていい。どんな物語でもいいのだ。
 
なぜなら、そこであの看護師さんが読み聞かせてくれる物語は、どの物語よりも輝いていたのだから。
中には、自分で気に入って何度も読み返した本もあった。内容が少し難しい本もあった。
 
だが、どうだろう。
その人が読むことによって、物語は新鮮な響きを放つのである。
何度も読んだのに、初めて読んだような、いや、違う話ではないかと錯覚するくらいだった。
 
かの人の口を通して語られる物語は、とても魅力的だった。
声も良かった。
多分、上手な朗読、というわけではないのだろうが、穏やかで、優しくて、暖かかった。
上手な朗読者は大勢いるのだろうが、あそこまで暖かい朗読を、私は知らない。
 
その時は、夜の朗読会の時だけは、どんな悪ガキも、静かに物語に聞き入る。
いや、最初はいろいろ言うのだ。
本の内容についてツッコンだり、笑いを取ろうとしたり……でも、ものの数分経たず、皆、耳を傾けるようになる。
 
一つ一つの言の葉を聞き逃すまいと、吐息の一つも聞き漏らすまいと、私たちは耳を潜める。
 
淡い橙色の常夜灯が照らすその光景は、サーカス小屋の中のようだった。
幻想的で、蠱惑的で、時にはハラハラドキドキした。
 
私たちは、間違いなく、物語の中にいた。
 
あの人は、私たち幼子に必要なものを知っていた。
それは、お固く言えば「教育」であり、素直に言えば、「物語」であった。
閉鎖された空間しか知らない子どもたちにとって、外の世界に目を向かせることや本を読むことは、大変意義あることであったろう。
 
私も、そのおかげで、物語に、本に、大きな魅力を感じることができた。
 
この夜の朗読会を開いてくれたのは、この看護師さんだけではない。
その人に倣って、何人かの人が、同じことをしてくれた。
 
それでも、印象に残って忘れられないのは、あの人である。
不思議なものだ。
多分、その人は、人としても、とても魅力的だったのだろう。
 
子どもは「怒る人か怒らない人か」を見極めて接することを、前述したが、あの人は、間違いなく、怒らない人であった。
というか、怒ったところを見たことがなかった。
 
他の看護師さんは、イタズラをすれば怒った。叱った。
でもその人は……と考えて、気付いた。
 
おそらく、私は、その人に怒られたくなかったのだ。怒った顔を見たくはなかったのだ。
だから、徹底的に、その人の前では悪ガキを封印していたと思うのである。
 
そう、私はあの看護師さんが大好きだった。
朗読会のことだけではない。
幼いながら、いや幼いからこそ、この人は素敵な人だと、本能的に分かっていたのだと思う。
 
あの声に、笑顔に、私は何を見ていたのだろうか。
決まった時間にしか会えない母とも、またいるはずのない姉とも違う、家族とは違う、憧れのような何か。
 
それくらいでいいのだろう。
 
私が退院するまで、その看護師さんは、私たちの病棟にいた。
異動が激しい(と思っている)看護師さんの中では珍しいと思った。
 
そういえば、お礼の一つでもしただろうか。
恥ずかしくて言えなかったか、それとも退院する嬉しさに、忘れていたか、だろう。
 
退院から30年ほど。もはや、その病院はない。
いつぞや見に行ったら、よりによって取り壊されている途中だった。
 
入り口の残骸だけが、あの日々が、もう戻ってこないことを実感させた。
当然か。
 
私はなぜかふてくされて、その場を去り、そして、帰りのバスであの朗読会を思い出した。
 
あれは、夢のような時間だったが、夢でない。
あの時間は、決して夢ではないのだ、とまぶたの裏にあの光景を焼き付け、日々の生活に戻っていった。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
黒﨑良英(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

山梨県在住。大学にて国文学を専攻する傍ら、情報科の教員免許を取得。現在は故郷山梨の高校に勤務している。また、大学在学中、夏目漱石の孫である夏目房之介教授の、現代マンガ学講義を受け、オタクコンテンツの教育的利用を考えるようになる。ただし未だに効果的な授業になった試しが無い。デジタルとアナログの融合を図るデジタル好きなアナログ人間。好きな言葉は「大丈夫だ、問題ない」。

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2022-03-23 | Posted in 週刊READING LIFE vol.163

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