週刊READING LIFE vol.165

10年前に残してきた人生の宿題《週刊READING LIFE Vol.165》


2022/04/11/公開
記事:深谷百合子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
好きなこと、得意なことを仕事に選ぶ。それができれば理想的かもしれないが、人生そう都合良く事が運ぶとは限らない。好きなことで、楽しく軽やかに生きていくことが幸せであるかのように言われるけれども、つまずいたり、立ち止まったりしながら、それでも諦めずに泥臭く自分の道を模索し続ける、そんな人生も味わい深くていいではないか。そしてそんな経験をした人ほど、誰かに伝えられるものがある。
 
40歳を目前にして中国への留学を決め、現在、中国社会科学院博士課程で学ぶ美佳さんも、決して順風満帆な人生を歩んできたわけではなかった。一歩前に進もうとすると、壁が立ちはだかるのだ。生きる意味を見失いそうになった時もあったが、壁が現れるたびに美佳さんは持ち前の愚直さで乗り越えてきた。
 
美佳さんにとって中国への留学は、大学生の時に留学して以来、20年ぶり2度目となる。
 
「私は今回、自分の人生の宿題と向き合うために留学しました」
と話す美佳さんの「人生の宿題」とは何か。美佳さんのこれまでの道のりと、これからの夢についてインタビューした。
 
1.「人生のコアになるもの」と出会う
 
美佳さんが中国に関心を持つようになったきっかけは、テレビ番組だった。小学生の頃に見た山崎豊子原作の『大地の子』、そして高校生の時に見たドキュメンタリー『小さな留学生』だ。
 
『小さな留学生』は、日本にやってきた9歳の中国人の女の子が、日本の小学校に転入してからの2年間を追ったドキュメンタリーだ。中国では優等生だったのに、日本の小学校では言葉の壁にぶつかり、「できない自分」に直面して悔し涙を流す。けれども、本人の努力と周りの協力によって、できないことができるようになっていく。そんな中国人の女の子や周りの大人たちの様子に美佳さんは心を打たれた。
 
「私はもともと、高校から大学へ進学するとき、これがやりたいというようなものは特になかったんです。当時は地元の大学に行って、地元で就職して、結婚して子どもを産んでというような人生を歩むのだろうと漠然と思っていました。でも『小さな留学生』を見た時に、中国のことを学びたいと思ったのです」
 
中国への関心が芽生えた美佳さんは、大学に進むと中国経済を専攻した。大学2年生の時、指導教官から「翌年から中国との交換留学を始める」という情報を得た。美佳さんは「この話は自分のためにおりてきた」と思った。そして、気づいたら「私、行きたいです」と手を挙げていた。そこから中国語の猛特訓が始まった。指導してくれた大学の先生は厳しかったが、美佳さんは真面目に課題に取り組み、歯を食いしばって特訓についていった。そして、大学3年生の時、念願の中国留学を果たした。
 
留学先では、言葉の問題で自分の気持ちを思うように伝えられないもどかしさを感じることもあった。『小さな留学生』で見た中国人の女の子の姿と自分を重ねたこともあった。でも、周りの中国人はみな優しかった。留学先の大学の先生や同級生は親身になって接してくれた。休みの日には一緒に遊びに行くこともあった。ここでできた友人は、後の美佳さんにとって「宝」となる。
 
その後、美佳さんは大学を卒業して就職する。「中国語を生かせる仕事を」と思っていたが、思うようにはいかなかった。それから2度の転職を経て、調査会社で調査員の仕事をするようになった。28歳の頃だ。
 
入社してすぐ、美佳さんは顧客である日本の電機メーカーから依頼された案件に携わった。当時台頭してきた海外の新興勢力のベンチマークを顧客へ提案し、その調査のために国内外を飛び回る生活だった。
 
「自分の足を使い、自分の目で見たものが事実。現場の空気感も含めて、インターネットで検索しても出てこない情報を集めるのが私のモットー」という美佳さんは、調査員としてのプライドを持ち、手間を厭わず、常に今自分にできるベストを尽くしてきた。
 
「新興勢力のベンチマークの一環で、世界のショールームを見て回った時のことです。新商品の導入状況をはじめ、ショールームのレイアウトや商品の見せ方などを調べるのですが、私はショールームの面積も調べようと思いました。でも、面積を調べると言っても、メジャーで測るわけにはいかない。質問してもちゃんと答えてくれるかどうか分かりません。他にもきわどい質問をしたりしているので、かえって怪しまれてしまうかもしれません。でも、部屋の面積は幅と奥行きが分かれば計算できると思って、自分の靴のサイズと歩数から計算しました」
 
美佳さんはたったひとりで、一歩一歩靴を合わせるようにして店内を歩き、歩数を数えた。それを3回繰り返して平均値を出した。報告書上では「面積○○㎡」と、たった数文字の情報だ。誰も見ていないし、適当にごまかすこともできたかもしれない。でも美佳さんは愚直に測った。
 
美佳さんは、そうした地道な作業を経て面積を出したことなど、自分からは一言も言わなかったが、顧客への報告会の席上で、顧客が気づいてくれた。
 
「お客さんから、この面積ってどうやって出したんですか? と聞かれたんです。自分の靴のサイズを参考にして測ったことを告げると驚かれました。その後の最終報告会では若手の勉強のためにと30名を超える社員の前でプレゼンをすることになりました。見てくれる人は見てくれていると思うと、嬉しくてちょっと泣けました。人に聞けば3分で済むようなことでも、私は本当のことは現場へ足を運んで、自分の目で見て、心で感じなくては分からないと思っているんです。効率重視の今の時代と逆行するかもしれないけれど、私の中で譲れない指針でした」
 
調査会社での仕事は、仮説を立てて調査し、検証し、発見する楽しさを美佳さんに教えてくれた。
 
「一つの案件に深く取り組む仕事は、自分の特性に合っていたのだと思います。調査やフィールドでの活動は面白いし、人生のコアに置きたいと思える仕事でした」
 
でもこの充実した生活は長くは続かなかった。美佳さんにとっては、何かをやり残したような気持ちがあったのだろう。「人生のコア」と思えたものは、その後の美佳さんにとって「人生の宿題」となった。
 
2.もがき続けた日々に風穴をあけたのは中国語だった
 
忙しくも充実した会社員生活を送っていた美佳さんだったが、ご主人の転勤により、自分自身の進退を決めなければならなくなった。遠距離恋愛を実らせて一緒になったご主人と、また別々の生活をすることにはためらいがあった。美佳さんは迷った末に、会社を辞めた。それからしばらくして、美佳さんは体調を崩してしまったのだ。
 
「ひどい時にはペンも持てなくて、字も書けなくて。家族に対しても申し訳なくて、私は生きている意味があるのだろうかと思いつめる日々でした」
 
そんな日々が1年近く続いた頃、転機が訪れた。家族の転勤で中国から日本にやってきた大学時代の中国人の友人が、突然台湾旅行に誘ってきたのだ。
 
「それまでは電車に乗るのも怖かったんです。だから、大丈夫だろうかと不安でした。でも、思い切って出かけてみたら、電車に乗れて、飛行機にも乗れちゃったんです。しかも、現地では別行動とかするんですよ。だから私はひとりの時は、台湾の家電売場を見に行って、どんなものが並んでいるのか調べたりしていたんです。その時、私はやっぱり調査が好きなんだなって思いました」
 
美佳さんのことを知っている人は一人もいないという環境も、自分自身を解放するのにうってつけだった。
 
「台湾で道が分からなくなって、台湾人の女性に道を聞いたんです。その時、あれ、私、久しぶりに人と話している! しかもここは台湾で、自分の中国語が通じていると思うと嬉しくなりました」
 
美佳さんは台湾から帰国すると、見違えるほど元気になっていた。台湾での出来事をずっと家族に話し続けていたそうだ。大学の恩師に久しぶりに連絡をとったり、会いたいと思う人に会いに行くようになった。そして、中国語の勉強を始め、仕事も少しずつ再開した。
 
その後いくつかの仕事を経験したが、自分の性に合わなかったり、会社から求められる仕事の進め方と自分のやり方が合わず、長くは続かなかった。
 
「色々な仕事をしましたが、私のフィールドはここじゃないと思ったんです。どうやら私は人と同じように無難にというのが合わないみたいで、一度とことん自分自身と向き合った方がよいのではないかと思ったのです。自分の道を究め、安心できる空間で仕事をしたいと思った時、学び直しという選択肢が浮かんできました。流れを変えたいと思いました」
 
3.10年前に残した宿題にとりかかる
 
美佳さんは実は、ご主人の転勤に伴って仕事を辞めた30歳の頃に、大学でもう一度学ぶことを考えていた。ところが体調を崩してしまったために、実現できなかった。それも美佳さんにとっては、「人生の宿題」になっていた。
 
40歳を目前に控えた昨年、美佳さんは中国への留学を決意した。
 
「やっぱり私は調査をするのが好きだけど、それまではたたき上げで、専門的に学んではいませんでした。学生の頃はまだあまりよく分かっていなかったから、研究テーマの設定が難しかったけれども、今は違う。上手くいくかどうかは分からないけれど、仕事で経験したから分かることもある。こんなことをやったら面白いかもという好奇心と、やるならとことん突き詰めてみようと思って、留学を決意しました」
 
でも、「今更大学に戻ってどうするの?」という周りの声に心が揺らぐ自分もいた。そんな自分を試すように、美佳さんは大学の恩師を訪ねる。
 
「大学の恩師は率直な物言いをする人。その先生に何か言われてひるむようなら、私もだめだなと思っていました。でも先生は分かったと言ってくれました。留学は10年越しの夢だったので、また10年前に戻った感じかな。どれだけ遅いんだって思うけれど、これは私のチャレンジです。後悔したくなかったから」
 
家族にも後押しされて、留学を決意してから1ヶ月で準備をし、合格した。留学は4、5年になる見込みだ。
 
「私にとって調査やフィールドでの活動は人生のコアであり、人生の宿題でもあります。それを究めるためには、今まで避けてきたけれど、自分の得意ではない統計的な手法を使った分析もやらなければなりません。だから、今まさに宿題をやっている感じです」
 
留学を終えた先のことは、まだ具体的なことは考えていないという美佳さん。でも、本質を失わなければ何とかなると考えている。
 
「研究職を目指すなど、色々選択肢は考えています。他にもやりたいことは沢山あります。例えば、日本に出稼ぎにきた中国人の子どもたちの力になりたい。原点は高校生の時に見たドキュメンタリー番組の『小さな留学生』です。日本語が分からないまま日本の学校に入り、苦労している中国人の子どもが沢山います。15歳とかで人生を諦めてほしくないのです。だからそういう子どもたちの力になりたいですね。あとは、教壇に立ちたいです。日本に居るのが一番安全で便利と思っている学生とか、自分はダメだなと思っているような学生に、自分の目で見たもの、心で感じたもの、現場に足を運んでつかんだ情報、そうした自分の経験、体験を通じて得たものに勝るものはないということを伝えていきたいです」
 
美佳さんは「10年前に戻った感じ」と話していたが、私は決して「人生の巻き戻し」だとは思わない。この10年の期間は美佳さんにとって、自分と向き合う大切な時間だったのだ。10年前に残してきた「人生の宿題」に取りかかり、新しい一歩を踏み出した美佳さんを、私は心から応援したいと思う。
 
今は入国制限の影響を受けて、美佳さんはまだ中国へ渡ることはできていない。手続きの分からないことも多いし、オンラインで提供されない授業もあって、先行きの見えない状況に不安も感じているという。今また美佳さんは、目の前に現れた壁に立ち向かっている。けれども美佳さんのことだ。きっと泥臭く愚直に壁を乗り越えていくにちがいない。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
深谷百合子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

愛知県出身。
国内及び海外電機メーカーで20年以上、技術者として勤務した後、2020年からフリーランスとして、活動中。会社を辞めたあと、自分は何をしたいのか? そんな自分探しの中、2019年8月開講のライティング・ゼミ日曜コースに参加。2019年12月からはライターズ倶楽部に参加。現在WEB READING LIFEで「環境カウンセラーと行く! ものづくりの歴史と現場を訪ねる旅」を連載中。天狼院メディアグランプリ42nd Season、44th Season総合優勝。
書くことを通じて、自分の思い描く未来へ一歩を踏み出す人へ背中を見せ、新世界をつくる存在になることを目指している。

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2022-04-06 | Posted in 週刊READING LIFE vol.165

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