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週刊READING LIFE vol.165

ライティングはぼくらの未来に贈るタイムマシン《週刊READING LIFE Vol.165「文章」の魔法》


2022/04/11/公開
記事:宮地輝光(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
小学校に入学したとき、ぼくは勉強机を買ってもらった。
机の前に座ってぼくは、引き出しをなんども開けては中を覗き込み、そしてがっかりしていた。
 
ぼくは期待していた。
タイムマシンにのって、ドラえもんがやってくるかもしれないと。
 
『サザエさん』と並ぶ国民的アニメである『ドラえもん』に登場するネコ型ロボットのドラえもんは、22世紀の未来からタイムマシンにのってやってくる。そのタイムマシンの出口は、主人公のび太の勉強机の引き出しだ。
 
ぼくの机からもドラえもんが来たら良いな、と無邪気に期待していたのだ。
のび太が、ドラえもんのタイムマシンにのって恐竜の時代に行ったように、ぼくも恐竜の時代にいって、恐竜をナマでみたかったのだ。
 
ドラえもんのほか、タイムスリップする物語はたくさんある。
ぼくの場合、イギリスの作家H. G. ウェルズの『タイム・マシン』や、マイケル・J・フォックス主演の映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』、千葉真一主演の映画『戦国自衛隊』、要潤主演のドラマ『タイムスクープハンター』といった作品がに頭に浮かぶ。もちろんこれ以外にも、タイムスリップの物語は数多く創られている。
 
なぜ、タイムスリップする物語に惹きつけられるのだろう?
 
タイムスリップの物語は、過去に行ったことで過去の出来事が変わってしまい、その結果、今の時代が変わってしまうという〈パラドックス〉が盛り上がる。たとえば、映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』では、マイケル・J・フォックス演じる主人公マーティー・マクフライが過去に戻ったとき、彼の両親の出会いを邪魔しかかり、あやうく自分が消えそうになる。そんなパラドックスが起きないようにあれこれ手を尽くマーティーの姿を、ぼくはドキドキ、ハラハラしながら面白がっていた。
 
だが、物語としての面白さ以外にも、タイムスリップの物語に惹かれる理由はある。
 
考えてみると、自分の心のどこかに、「過去を変えて違う人生をすごしてみたい」という願望や、「今の自分が過去にいけたらどんなことができるだろう」という野心めいた想いが潜んでいるように思う。それに「もし行けたとして、どんな気持ちになるのだろう」といった好奇心もある。
そんな過去へのさまざまな想いを少しでも満たしたい。そんな願望が、タイムスリップものの映画やドラマ作品をみる動機になっていると、ぼくは思う。

 

 

 

過去へのタイムスリップ。
現代では、まだ実現していない出来事だ。
 
いつか人類が実現できることなのかどうかすら、まだわかっていないといって良いだろう。アインシュタインの一般相対性理論以来、人間が未来や過去に行くことができるかについて、物理学の世界で真剣に議論が重ねられている最中である。
 
どうやら、木星クラスの大きさの天体10個を半径30メートルの球体にまで圧縮した超々高密度の物体を2つつなげることができれば、人が通れる可能性のある〈ワームホール〉という時空のトンネルができる。さらにいくつもの「もし」を技術的にクリアできれば、ワームホールを利用して過去に行けるかもしれないようなのだ。
 
実現の可能性を示す理論研究は着実に前進してはいるようだが、あいにく現時点では、タイムマシンは実用化されてはいないし、実用化される見込みもない。
 
だから、今のぼくらがタイムスリップするためには、〈魔法〉をつかうしかないのだ。
人の力も、自然の力も超えた〈魔法〉の力を望むのだ。
 
今の時代、魔法の力を望むことは少ない。
ガス栓ひねれば火がつくし、蛇口からは熱いお湯が出る。冷凍庫を開ければ氷ができてるし、エアコンからは冷たい風が吹き出してくる。
すべて、昔ならば魔法のようなできことだ。しかし現代では、科学によって現実のものとなり、便利になった。もう魔法など必要がないほど、楽に生活ができる。
 
そんな魔法泣かせの現代に生きるぼくらが望む数少ない魔法のひとつが、タイムマシンではないだろうか。

 

 

 

タイムマシンの魔法がつかえるなら、過去に行ってみたい。
できれば、自分が生まれる前の時代に戻って、過去に起こった出来事をリアルに目にしたいと、ぼくは思う。
 
でも、それはちょっと妙な願望だと思う。
たしかにぼくらは、過去に行ったこともなければ見たこともない。
でもぼくらはもう、いろいろと過去の出来事を知っている。
 
たとえば、ぼく自身の過去や、ぼくの周りにいた人たちの過去のことならば、ぼくの記憶に残っている限り知っている。
だが、ぼくと関わりのない、まったくみたこともない昔の出来事まで、ぼくらは知っている。
 
たとえば、織田信長が比叡山延暦寺を焼き討ちしたことを知っている。
たしかにぼくは、坂本から比叡山を登り、延暦寺に行ったことはある。
だがそれは、信長が延暦寺を焼き討ちしたという歴史を知っていたからであって、なにも知らずにただお寺参りだけで山を登ったわけではない。
 
知っている理由は、いうまでもないことだろうが、学校やテレビ番組などで〈歴史〉を学んできたからだ。
その〈歴史〉は、遺跡の発掘成果や科学的調査の結果にくわえ、洞窟の岩肌、石壁、粘土板、木の板、そして紙といったさまざまな形で残された数多くの文章を、専門家が分析して作り上げられてきた。
 
知っているなら、過去に行く必要なんてない。
なのに、どうして過去に行ってみたいと思うのだろう。
 
それは、知識として学んだ〈歴史〉では、はっきりしないからだ。
知識を学ぶだけでなく、自分で遺跡や文章を目にすると、過去の様子がよりリアルでクリアに感じられてくる。
 
たとえば、織田信長が豊臣秀吉の正室おねに宛てた手紙を読んでみる。
秀吉の浮気があまりにひどいと訴えてきたおねに対して、信長はおねの気持ち寄り添い、秀吉によく言って聞かせるからと返事を書いている。
その手紙には、おねにむけて「以前より美しくなられた」などと言葉をかけている。
比叡山を焼き払った信長からは想像できない言葉だ。
男らしく女性への思いやりにあふれた、人間らしい信長の顔が浮かび上がる。
 
もう少し過去にさかのぼってみよう。平安時代中期、清少納言の随筆『枕草子』を読んでみる。
「ふと心劣りとかするものは、男も女も、言葉の文字のいやしう使ひたるこそ、よろづのことよりまさりて、わろけれ」と、要するに男も女も品のない言葉づかいをしてみっともない、などとぼやいている。こんなぼやきは、現代でも耳にする。平安時代という千年も昔に生きた人間が、今の人間と変わらない姿として見えてくる。
 
さらに過去にさかのぼる。
奈良時代前期の権力者、長屋王の屋敷跡からは、10万点もの木簡が出てきたことで有名だ。この木簡を読んでみる。今日の飯はまずかっただの、上司に叱られただの、当時の日常の些細な暮らしぶりが記録されていて、1300年も前のことを身近に感じてくる。
 
こうして過去の人々が残した文章をより多く目にしていくことで、ぼくらは過去の出来事をよりクリアに思い描くことができる。
 
クリアであればあるほど、驚きや発見もより一層増える。
知識と技術が蓄積されて、豊かになり、便利になり、高度に文明化しても、素の人間の姿はさほど変わらないと感じることも多いだろうし、今とはだいぶ感覚が違うのだなと驚くことも増える。
 
過去の人が残した文章に、ぼくらの知識や想像力をあわせるだけで、ぼくらはまるで過去へタイムスリップしたような感覚に包まれる。
 
この感覚はもう、タイムマシンにのった感覚だ。
だが、リアルでクリアに感じるにはまだ足りないのだ。
もっとたくさんの文書が残されていて、それらを目にすることができるならば、過去の時代に戻る感覚はよりクリアでリアルなものに近づいていくに違いない。
 
だが現実には、残された文章は決して多くない。今ほど文章を書くことは普及していなかっただろうし、災害や戦渦によって失われてしまったものも多いだろう。
過去に関する文章が不十分なおかげで、発見や驚きのほかに、謎が増える。
だから、実際に過去に戻ってみて、過去のリアルをクリアにみてみたくなる。
 
歴史の謎は、もっとたくさんの文章が残されていれば解明できたかもしれない。
文章が残っていれば、謎を解くためにタイムマシンという道具を使って過去に行きたいと思わなくてすんだのに、と残念に思う。

 

 

 

多くの文章を残しておいてほしかった。
そう思うのは、遠い過去の人々に対してだけではない。
過去の自分に対しても、もっと文章を残しておいてほしかったと思う。
 
子どもが生まれてからのことを書き残していた文章を読み返すと、今では易々とできることも大変だったなとか、あのときは周りの助けがあったからできたなとか、いろいろと思い出す。子どもが毎日成長していくのと共に、自分も変わったなと気がつく。
 
子どもたちが大きくなり、以前ほど子育てに手間がかからなくなったと思ったら、ぼくは不意に病に襲われ、下半身不随になった。手術をうけた後、病院でリハビリを続ける間、ぼくの身体は動きも感覚も毎日少しずつ変化していった。この間、ぼくは記録を残した。それは3ヶ月で10万字以上の文章になっていた。読み返すと、手術直後のことはちょっと読めないと感じるほど辛そうな内容だ。けれどもその辛さは、たった一年ですっかり忘れていて、「大変だったんだなあ」と人ごとのように感じてしまう。
 
こうして過去に自分が書いた文章をたまたま読み返すと、「そんなことあったっけ?」と忘れていたことをいくつも思いだす。あの頃はそんなことを考えてたっけと今の自分との違いに驚いたり、逆にそんな昔から今と全く変わらないことを考えていたのかと驚くこともある。記憶していた内容が間違っていて驚くこともある。
 
驚きとともに、自分が記憶している過去がだいぶ怪しくなってくる。
実際のぼくは、どんな姿だったのだろうと知りたくなってくる。
もっと多くの文章を残しておけば、よりリアルでクリアな状態で自分の姿を記憶に残せたのではないだろうかと悔やむ。

 

 

 

数多くの文章が残されていれば、それはタイムマシンに匹敵するものになる。
文章は、時をさかのぼる魔法なのだ。
 
残念ながら、どんなに文章を書いても、ぼくら自身は過去にタイムスリップできない。
けれども、ぼくらが今、文章をできるだけ多く書き、未来に残せば、ぼくらの生きている時代に未来の自分、未来の人類がタイムスリップできる。
 
今を生きるぼくらが文章を書き積み上げていくだけでできる、未来に向けての魔法なのだ。
何を感じ、考え、行動しているのか。
たわいもないことでも書き記した文章の数が多ければ多いほど、魔法の精度は上がる。
未来には残したくない、人に知られたくないと思うことでも、文章として残しておけば、魔法の精度はより上がるに違いない。
 
デジタル化とデジタル処理技術がすすむにしたがって、お腹のポケットの中から取り出すように、あらゆる文章をより手軽に目にできるようになる。
 
そんな未来のために、思いつくかぎり、頭を絞って、手を動かして、いろんな文章を書き残したいと、ぼくは思う。
だって、ぼくらの書く文章は、未来に向けて贈るタイムマシンなのだから。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
宮地輝光(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

千葉県生まれ東京育ち。現役理工系大学教員。博士(工学)。生物物理化学と生物工学が専門で、酸化還元反応を分析・応用する研究者。省エネルギー・高収率な天然ガス利用バイオ技術や、人工光合成や健康長寿、安全性の高い化学物質の分子デザインなどを研究。人間と地球環境との間に生じる”ストレス“を低減する物質環境をつくりだすことをめざしている。

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2022-04-06 | Posted in 週刊READING LIFE vol.165

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