私という唯一無二の親友のために《週刊READING LIFE Vol.204 癒される空間》
*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
2023/2/13/公開
記事:前田光 (READING LIFE編集部ライターズ倶楽部NEO)
引っ越しが決まったとき、新居には私の好きなものを揃えて、私が一番落ち着ける場所を作ろうと心に決めた。
癒しの場所を外に求めるのも悪くない。いやむしろ、それだって必要なことだろう。
だが、在宅ワーカーの私が一番長く過ごすのは自宅だから、まずはそこを心地よい場所にしたかった。
あとのことはそれからだと思ったのだ。
もちろん予算には限りがあるので贅の限りを尽くすことなどできないが、生活用品は最小限でいいと思っていたし、以前から使っていたものもあったので、びっくりするほど高い買い物にはならなかった。
必要最低限の家電製品を買い直したほかはせいぜい、「仕事用デスクの向こうに掛けるカーテンはいつも目に入るから、これだというものが見つかるまで時間をかけて探そう」とか、「床に敷くラグは前々から素敵だと思っていたトルコ製の絨毯にするぞ」とか、「ダイニングテーブルは天板の大きさと足の高さが変えられるものにしよう」とか、「枕元にはやっぱりトルコのモザイクランプを置こう」とか、しょせんはその程度のことだ。
そうやって整えた新居は、吟味して選んだものしか置かなかっただけあって、数は少ないが好きなものだけに囲まれるという、ほぼ頭に描いたとおりの空間になった。
次にすることはこの状態を保つことだが、私にとってはこちらの方が難しいと思っていた。
掃除も片付けも、したくない家事ワーストランキング(自分調べ)の一位と二位をぶっちぎりで独占するくらい、嫌いだったからだ。
汚いところが平気だというわけじゃないし、掃除の行き届いた空間の、空気までもが澄みきったあの感じはむしろ大好きだ。それに、ものがきちんと片付いた部屋にいると、心や頭の中も落ち着いて冴えわたる感すらある。
それなのに毛嫌いしていたのは多分、同じ家に住んでいるのに掃除機一つかけようとせず、散らかし放題していた家族に対し「何で私ばっかり掃除しなきゃいけないの」と不満を抱いていたからだろう。
でも一人になった今、そんな言い訳は通用しない。
今の私の目の前にあるのは、「過去はともかく、今のあなたはどうしたいの? きれいな部屋にいたいの? それともただ薄汚れて汚くなっていくばかりの『自分の城』を、そのまま放置して見て見ぬふりをするの?」というとてもシンプルな問いかけだった。
ついにエンジンをかけるときが来た。
それは分かっていたが、今まで優先順位の下の方に追いやっていたものを、上位に持ってくるにはそれなりのきっかけがいる。
そんなとき、ある人から「した方がいいのにできないことがあるなら、それをすると自分にどんなメリットがあるかを一度考えてみるといいよ」とアドバイスされた。
きれいな部屋に住めることは大きなメリットだが、それが分かっていてもなお食指が動かないのだから、動機としてはやはりちょっと弱いのだろう。
あともう一押ししてくれる何かが欲しい。
そこで採用したのが、「掃除は開運」というキーワードだった。
YouTubeにも書店の一角にも、掃除をすると運が開けるといった内容のコンテンツが並んでいるのを知ってはいたが、自分で試してみようと思ったことはなかった。
でも、もう他に打つ手がない気がしてきた。
「ホコリでは死なない」という屁理屈をこねくり回して重い腰をあげようとしない私には、根拠も理屈も超越した別次元の何かをガツンとぶつけないと、どうにもならないんじゃないかと思えてきたからだ。
そして思い立ったが吉日なのだ。
バカバカしいと笑いたい人は笑うがいい。
だがこれが意外なほど功を奏した。
まずは掃除開運系の動画を何本も見て、掃除をすることでこんな風にいいことがある、運がよくなるといった情報を頭に流し込んでみた。
自分で自分を洗脳しているみたいだなと思ったが、知っちゃったからには試してみなければと思うものだ。
見ただけで終わってしまったら、動画の視聴にかけた時間がぜんぶ、無駄になってしまうからだ。
やりだすときりがなくなるのも掃除だから、玄関とトイレと脱衣場と床の拭き掃除を毎日30分だけすることに決めた。
最初のころはバカ正直に「掃除をしたら何か分からないけど必ずいいことがある」と自分に言い聞かせていたが、そのうち床に落ちている髪の毛やこびりついた汚れを目を皿のようにして見つけ、ピカピカに拭き取るのが快感になった。
掃除をする目的が「何かいいことがあるから」とか「きれいな部屋に住めるから」というメリットを得ることではなくなって、掃除という行為自体が目的に変わったからだ。
そして、部屋の隅から無心に床を拭き上げていると、いつの間にか雑念が消えて頭が空っぽになっていることにも気が付いた。
精神を集中させた掃除はまさに瞑想じゃないかと思ってネットを検索したところ、「お掃除瞑想」という言葉がすでにあった。
そうやって掃除していると、他の誰でもない私自身に心地よい空間を作っていることが、快感から喜びになっていった。
癒される空間って何だろう。
掃除がこんなに楽しいものだなんて、以前の私は知らなかった。
自分のために癒しの空間を作るなんて発想がなかったのだから、当たり前かもしれないけど。
誰だって、人から丁寧に扱われたら嬉しいものだ。
大切な人から優しくされたり、尊重されたり、あなたはとても大切な存在なんだよと暖かい声をかけられたりしたとき、人は癒しを感じるだろう。
以前にどこかで「自分のことを、自分の親友だと思って接しなさい。人はみんな、他人にはとても言えないようなひどい言葉を自分自身に対して投げかけているものです。あなたはあなたの親友が大失敗をして落ち込んでいるときに、お前は本当にダメな人間だなんて言いますか? きっと『大丈夫、今回は失敗したかもしれないけどきっと次は大丈夫だよ』と優しく声をかけるでしょう。あなたの一番の理解者はあなた自身です。だったらあなたは、誰よりも自分をまず大切な親友として扱うべきです。自分の一番の味方でいるべきです」といった言葉を読んだことがある。
もしかしたら私は今まで、自分を粗末に扱うことに慣れていたのかもしれない。
少なくとも、親友のように接していなかったことは確かだ。
大切な友達を招く前には大掃除しなきゃいけないような部屋にいることに、何の疑問も持っていなかったのだから。
多分私は、これからも失敗しては落ち込んだり、悔しがったり泣いたりするだろう。
だけどそれでも、私という友が安らげるよう、癒しの空間をいつも用意しておこうと思っている。
□ライターズプロフィール
前田光(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部NEO)
広島県生まれ。
黒子に徹して誰かの言葉を日本語に訳す楽しさと、自分で一から文章を生み出すおもしろさの両方を手に入れたい中日翻訳者。
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