おばさんのささやかな黒い抵抗《週刊READING LIFE Vol.209 白と黒のあいだ》
*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
2023/3/20/公開
記事:青野まみこ(READING LIFE編集部公認ライター)
私は黒いマスクが好きで、よくつける。そしてそれにはちゃんとした理由がある。
新型コロナウイルスが蔓延し始めてから否応なしに日常がマスク生活になり、またたくまに3年が過ぎた。
この3年間で実に様々なマスクを目にした。マスク生活が始まった頃、皆が一斉にマスクを買おうとしたため、在庫がなくなって奪い合いの騒動になったのも今となっては懐かしささえ感じる。買えなければ作ればいいじゃないと、ハンドメイドの店で布マスクの材料を買う人が増え、今度は材料が手に入らなくなるという笑えない話もあった。そして使い捨てマスクの供給が徐々に再開されてからは、形も機能も多彩なマスクが出回り始めた。
本来だったら、マスクをつけるとかつけないとかは個人の自由だけど、パンデミックのご時世、どこに行っても「マスク着用をお願いします」と書かれていれば、つけないわけにも行かない。世の中がそんな感じだったし、今後いつこのパンデミックが終わるかわからないため、まとまった数のマスクを調達しておかないといけないと思っていた。
さて一体どんなマスクを買えばいいのかと考えたけど、まだそのころはマスクが品薄傾向だったためとりあえず「手に入るものを買う」ことにした。毎日つけるマスク、1日1枚使って捨てるとして、1年間で365枚、そしてうちは今は3人家族だからその3倍。1,000枚くらいは確保しておきたいところだ。さらに贅沢を言うならば、持ち歩くときに便利な「個包装」だとなおいいかもと考えた。
そんなマスク、しかも1,000枚以上だなんてあるわけないじゃんと思っていたら! なんとそれが存在したのだ。通販で「マスクをまとめ買いすると安くなります」という広告を見て、どんなものかとクリックしたら「1箱50枚入り・個包装・25箱」という商品があったのだ。その場で即決して購入した。全部で1,250枚のマスクを買うことなんてそうそうないと思うけど、またいつ品薄にならないとも限らない。買えるときに買っておけば安心だからと、多いなあと思いながらもそれを購入した。
大量に買ったマスクの色は、当然といえば当然だけど「白」だった。マスクといって真っ先に思いつくのは白いマスクだろうし、それ以外に大量買いの選択肢はなかった。家に届いた、1つの辺が1mくらいもある恐ろしく大きい箱を開け、そこにぎっしりと詰まったマスクの箱を見てうんざりしたことを覚えている。これから先、この枚数を本当に使い切れるのだろうかと。
私たち一家は大量に買い込んだマスクを日常生活で少しずつ使い始めた。毎朝、ビニール袋で個包装されたマスクを1つ取り出し、開封したらそれがその日1日使うものだ。これをつけて出勤する。
駅で、ホームで、電車の中で、みんな示し合わせたようにマスクをしている。そんな日々が続いていくと、まるでそれが前から普通だったかのような錯覚に陥ることもあるけど、一方でマスク生活以前には考えられなかったようなことも目にすることが多くなった。
例えばだけど、混雑した電車内で人と人とがぶつかったり、降りるときに人をかき分けなければならなくなったりすることは多い。マスク生活以前だったら「すみません」などと言いながらその場をやり過ごすのだろうけど、マスク生活以降はそんなときに小競り合いが始まることも多くなった気がしている。電車内に限らず、街中でも大勢の人が密集しているスペースで、人と人とが交錯したようなときに捨て台詞を吐く人も増えたなと感じていた。
もっと正確にいえば、独り言のような感じでつぶやいたことが、聞こえてきてしまうことが増えた。言っている本人はマスクをしているし、周りもマスクをしている。お互い口元がもっそりとした状態で、言ったって相手に聞こえっこないと思いながら悪態をついたり舌打ちをしているのだろうけど、実はしっかりと聞こえている。言った本人がそのことに気づかないのだ。
どうせわからないんだから言ったって構わない、今までであればお互いに我慢していた「心の声」、本音のようなものを、オブラートに包まずいきなり発言する人が増えてきた。それがコロナ禍を経て「変わったな」と思うことだ。
匿名のSNSだったら何を言っても構わない、そう思ってひどい書き込みをする人もいるけど、その書き込みの声をそっくりそのままリアルな声にして発言し出したらどうなるだろう。当然ながら社会がギスギスしてくるし、人との間の摩擦だって多くなる。コロナ禍の満員電車のなかで目にする、耳にすることが、SNSの文字そのままみたいなこともあった。
私は女性で、身長もそんなに高くはない。例えば電車の中で体格がよく身長が180cmくらいの人が押しのけてきたら負けてしまう。降車駅が近づいてきて、ドアに向かって多くの人が集まってきたようなときに、身体の大きい人が「俺が先だ」と言わんばかりにぐいっとねじ込んでくることも多い。相手がこちらを見て「これなら勝てる」とでも思っているのだろうか。こちらが前に並んでいるのに、当然のように隙間に入り込んで、さっさと降りていくことも何度もあった。
そんな目に遭った時は、そういう人は遠慮しない人というかなんというか、譲り合うという単語なんて聞いたこともないんだろうなと思うことにしているけど、それでもやっぱり足元を見られて邪険にされたようで不愉快である。そんなことが何度も続くと、何か対策はないだろうかと考え、私はあることを思いついた。
(そうだ、マスクだ。マスクを変えてみたらどうだろう)
マスク生活になってから発売されたマスクの色は本当に様々だ。通信販売で見かけるマスクは、まるで36色の色鉛筆のように暖色から寒色まで微妙なグラデーションで取り揃えられている。家で大量にストックしているマスクは白色だけど、この色もいろんなものを試したらいいんじゃないだろうか。そう考え、私は少しずつ色付きのマスクを購入することにした。
女子だからピンク系もかわいいし、顔にフィットするベージュ色もいいんじゃないかとか、楽しみながら試してみた。そして黒いマスクを試着した時、あまりにもピッタリとしてグッと凄みが出たことに気がついた。
(黒いマスク、いいんじゃない?)
日本ではコロナ禍の前は黒いマスクをしているのはDJの人とか、クラブで踊っている人とか、どちらかというと遊び人っぽい人が着用するイメージがあったが、コロナ禍を経てすっかり日本では黒いマスクは定着したように思う。男性も女性も多くの人たちが好んで着けている印象がある。
しかしながら海外では黒いマスクをしている人というのは、テロリストのようにみられるのだと何かで読んだことがある。覆面のように使われているのかもしれないけど、同時にそのくらいの威圧感が、黒という色からは連想させるものがある。よし、今度から電車に乗るときは黒いマスクをつけてみたらどうだろうかと考えた。
他の人にマウントを取りたい訳じゃないけど、あまりにも電車内で軽くみられることが増えてきていた。おばさんなんて生意気だ、あっちに行け的な扱いを受けることも多くなってきたから、だったらそれに対抗したっていいじゃないかと思うのだ。
私は電車に乗るときや、人混み、特に若い人が多いような繁華街に出かけるような時は黒いマスクをつけるようにした。黒のマスクをつけて、割と強めな目線で相手を見るとたじろぐことも確認している。私の雰囲気が相手を威圧しているのかも知れないけど、黒いマスクのおかげで自分に対してのいわれのない攻撃を防御できているんじゃないだろうかと思うことは確かにあったと思っている。世の中が私のような中高年女性全般に対して邪険に思っているのならば、そのことに対してディフェンスを築く権利だってあるはずだから。
最も、こんなことを書いている自分だって、昔に比べたら随分と人に対して冷たくなってしまったなと思うことがしばしばある。若い頃だったらもうちょっと人に対して思いやりを持ったり、親身になってあげたりしたことは多かったけど、年月を経て、転職を繰り返して、齢を重ね経験を積むごとに、純粋な気持ちの周りにどんどんと余計な思惑がくっついて、鈍くなっているのかもしれない。
人に親切にしてあげたけど、まるでそうされるのが当然とでも言わんばかりの態度を取られた。その人のためを思ってやったことで却って叱られた。そんなことが続いたら、もう2度と余計なことはすまい、親切なんてするもんかと学習してしまう。そんな学習が、人との間にバリアを作り出していると思うこともある。
3年前に買った、25箱、1,250枚の白いマスクは、気がつけばもうすぐなくなろうとしている。この3年間で変わったこともあれば、変わらないものもある。変わってしまった自分に気がついたことも、変わったことの1つなのかもしれないけど、昔あんなに情に厚かった自分は、もう取り戻せないものなのだろうか。このまま世に流されて、ささくれたような、投げやりな、乾いていく心で生きていくのも、それはそれで虚しいはずである。そうなりたくはなくて、文章を書いてみたり写真を撮ってみたりして、心に触れるもの、心を揺さぶるものを増やしたいのではなかったのか。誰かに嫌なことをされたから自分も仕返ししてやろうだなんて、ドス黒い感情が一瞬でも出てくる自分は、なんのために日々生きているのだろうか。
人にナメられたくはないから、これからも人混みにいく時は当分黒いマスクをつけるとは思う。それでも、何か自分が手助けしてあげたらいいような場面に出くわした時や、一歩自分が譲ったらスムーズにいくんじゃないだろうかと思った時は、そうしてあげられるくらいの度量は持っていたいものだ。我先だ、オレが、わたしが優先だよと、自分自分とそればかり言うようになってしまったら、魂のレベルも地に落ちたというものだ。できれば私はそうはなりたくはない。いざというときに、純白のマスクのようにまっさらな心は、すうっとすぐに差し出すことはできるのだろうか。そこに、人としての魂のレベル分けの基準があるような気がするのだ。
□ライターズプロフィール
青野まみこ(あおの まみこ)
「客観的な文章が書けるようになりたくて」2019年8月天狼院書店ライティング・ゼミに参加、2020年3月同ライターズ倶楽部参加。文章と写真の二軸で勝負するライターとして活動中。言いにくいことを書き切れる人を目指しています。
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