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ピアノを弾くように軽やかにキーボードを叩く


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人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

記事:かたぎりひとみ(ライティング・ゼミ6月コース)
 
 
2018年5月29日 
22時半過ぎ、妻のスマホの着信音が響く。スマホの画面を見た妻が「病院からだ!」と悲痛な叫び声をあげる。青ざめた顔で電話に出た妻は、神妙な様子で話を聞いている。
 
義母の容体が急変したそうだ。心臓からの出血が止まらず、血圧が低下して危険な状態だという。これからすぐに緊急オペに取り掛かるとのこと。至急病院へ向かう。
 
22時45分、車の中で震えが止まらない妻。不安げな表情で黙ったままだ。「とにかく落ち着こう」と声をかける。
 
23時、非常口から入り、手術室のある5階へ向かう。心電図のモニターだろうか。緊急事態を伝える警告音が絶え間なく響き渡っている。慌ただしく出入りするスタッフの姿が目に入る。「輸血、準備出来ました!」「血圧低下!」「急いで!」と切迫した声が飛び交う。
義母の状態が良くないことが、嫌でも伝わってきた。
 
23時10分、医師から説明を受ける。心臓に血液が貯まり、肺を圧迫しているそうだ。全身にうまく血が回らなくなっており、命の危険があるらしい。妻と二人で「どうかお願いします」と祈るような気持ちで、深々と頭を下げた。
 
23時半、家族控室に移り、手術が終わるのを待つ。手術は早くて2時間、長ければ5時間ほどかかるそうだ。とにかく無事でいて欲しい。「大丈夫だよね……」と妻が不安げにつぶやく。
看護師が「少し休んでください」と、毛布を持ってきてくれたが、私も妻も全く眠れなかった。
 
1時半過ぎ、緊急オペ終了の連絡を受ける。執刀医からの説明によると、命の危険は避けられたそうだ。涙ぐむ妻と共に、何度もお礼を言う。医師やスタッフの皆さんが力を尽くしてくださったおかげだ。感謝しても感謝しきれない。
 
これは、夫が書き留めておいた記録の一部である。
私の母は6年前に心臓病の手術を受けた。手術は日中、8時間にわたって行われ、一度は成功したかに思われた。しかし、夜になって容体が急変し、再び手術を受けることになる。夫はこうした一連の出来事を記録していたのだ。
 
夫の記録を読むと、あの夜がどれほど緊迫していたかがわかる。
しかし、断片的には覚えているものの、細かいところはほとんど覚えていない。その事実に驚かされる。これが日常の出来事だったというのなら、覚えていないのもわかる。
しかし、母親が死にかけるというまれな経験をしたのだ。記憶が薄れていることが信じられない。
 
あの夜、私は「母はこのまま死んでしまうかもしれない」という恐怖に押しつぶされそうになった。命が助かったと聞き、医師やスタッフへの感謝で心が震えた。この夜のことは、絶対に忘れないだろう。そう思った。
しかし、これほど強烈な感情の記憶であっても、月日がじわじわと薄めてしまう。
 
記録をじっと見ていると、次第に当日の感情が鮮明によみがえってくる。
手術をした日は、偶然にも祖母の命日だった。母が危険な状態にあると知ったとき、祖母が母を連れていこうとしているのだと思った。「おばあちゃん、お願いだから連れていかないで」と祈ったことを思い出す。母の急な容体の変化に、自分の身に起きていることが現実とは信じられず、動揺した。
そんな「あの日の私」が、くっきりと脳裏に浮かぶ。夫が書き留めていた記録が、忘れていた感情の記憶を揺り動かしてくれたのだ。
 
私はここに「書くこと」の真価を見た思いがした。文字が脳に刺激を与え、深層に眠っていた感情の記憶を呼び覚ましてくれる。夫が残した記録でも、こんなにも私の内面を深く揺さぶるのだ。
もし、私自身がこの出来事を記録していたなら、さらに細やかな感情のひだまで辿れたかもしれない。今さらながら、自分も書き残しておけば良かったと、少し悔やまれる。
 
「書くこと」は感情の保存なのだ。私がその時、何を見てどう思ったか、その経験を通して何を感じたか。瞬間の感情を文字にして保存しておく行為なのだ。
 
文字ではなく、写真や動画で瞬間をとらえることも可能だろう。文字に比べて、写真や動画の方が圧倒的に情報量も多い。
しかし、例えば、あの緊急手術を行っているフロアで、写真を撮る気になるだろうか。実況中継のように、自分の感情を口にしながら、必死に働いている医療スタッフの動画を撮影できるだろうか。真剣に説明をしている医師にカメラを向けられるだろうか。私にはとてもできない。
 
何より、自分の感情をより忠実に表現できるのは文字だ。
「驚いた」「緊張した」「不安になった」「感動した」
あの夜の感情を表現できるのは、文字をおいて他にないだろう。私にとって「書くこと」が、唯一感情を保存できるツールなのだ。
 
感情を保存した文章を取り出せば、過去の自分と対面できる。過去に書いた言葉が、未来の私の力になるかもしれない。未来の私が、過去の未熟な私を見て、成長した自分を誇らしく思うかもしれない。
今日書いた文章が、未来の私を励まし、救う。まるでファンタジーの世界ではないか。感情を保存する「書くこと」が持つ価値と可能性に、私の心は踊る。
 
だから、私はこんなにも「書くこと」に魅せられるのだろう。これから私は、どれだけの感情をストックしていくのだろうか。自分の感情を、より忠実に表現したい。ピアノを軽やかに弾くように、感情を文字に託し、流れるようにキーボードを叩く。そんな姿を夢見て、私は今日も「書くこと」に向き合う。
 
 
 
 
***
 
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2024-07-11 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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