三沢先生の「うちの子」話
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記事:妹尾有里(ライティング・ゼミ6月コース)
(※これはフィクションです)
「うちの子ね……」と三沢先生はにこにこしながら話し出す。
三沢先生は4年3組の担任で、私は4年2組の担任。私が勤務している小学校は4年生は3クラスで、1組は学年主任の近藤先生が担任をしている。
私は教師になって2年目。今年度初めてクラス担任をすることになり、うれしい反面、責任の重さに押しつぶされそうになることもある。そんな私を、三沢先生はいつも「大丈夫」と笑顔で勇気づけてくれる。三沢先生は15年目か16年目かの中堅どころの先輩先生で、安定感と包容力が半端ない。「西君のお母さんから、こんなクレームの電話があって……」なんていう私の愚痴にも、嫌な顔ひとつしないで「それは大変だったね。でも、吉野先生はちっとも悪くないから気にすることないよ。大丈夫」と励ましてくれる。
三沢先生が職員室で「うちの子ね……」と話し出すのは、決まって学年主任の近藤先生が席を外している時だ。ということに、私が気づいたのは、ごく最近のこと。もしかしたら、結婚はしているけれどお子さんのいない近藤先生に気を遣っているのかもしれない。
今も近藤先生は席にはいない。
「うちの子ね、段ボールが大好きなの。お気に入りの段ボールがぼろぼろになったから捨てようとしたんだけど、中に入って出てこないのよ。困っちゃう」と、にこにこしながら話す三沢先生は、ちっとも困っているふうではない。段ボール好きなわが子が、かわいくてしかたないみたいに聞こえる。「段ボールの中って、秘密基地みたいですもんね」と返しながら、そういえば私も幼稚園の頃、冷蔵庫が入っていた段ボールの中にぬいぐるみを並べて一緒にお昼寝したりしたっけ、と懐かしく思い出した。
三沢先生が初めて「うちの子ね……」と話してくれたのは、今年度に入った初日だった。初めて担任を受け持つことになり、「よーし、がんばるぞ!」と張り切ったり「私にできるのかな」と弱気になったり、感情が忙しく上がり下がりして落ち着かないでいる私に、三沢先生が「うちの子ね、キュウリが大好きなの」と、話しかけてくれたのだ。前年度も同じ小学校で勤務していたけれど、5、6年生の家庭科の授業を受け持っていた私と3年生の担任をしていた三沢先生とはあまり接点がなく、なかなか話す機会がなかった。いつもにこにこと朗らかな三沢先生の周りには、常に何人かの児童がまとわりついていて、「人気のある先生なんだな」という印象だった。
「そうなんですか! わたしもキュウリ大好きです。子どもの頃なんか、母からキュウリ丸ごと一本もらって、よくかぶりついてました」という私の話を、三沢先生は楽しそうに聞いてくれた。そんな何気ない会話で緊張もすっかりほぐれて、私は心の中でそっと三沢先生に感謝した。
ゴールデンウィーク明けの頃だったと思う。
「うちの子ね、お風呂が苦手で、入らせるのに一苦労なの」と三沢先生がにこにこ言い出した。三沢先生はお子さんがお風呂に入るのを嫌がっても、きっと声を荒げたりしないんだろうな。追いかけっこしたりしながら、楽し気にお子さんをお風呂に誘っている姿が目に浮かぶ。「ご主人は、お子さんをお風呂に入れてくれたりしないんですか?」と何気なく訊くと、三沢先生はにこにこした表情そのままで「夫はいないの」と事も無げに言った。私はどうリアクションしたらよいのかわからず、「そうなんですね」と言うのが精一杯だった。
三沢先生は、シングルマザーだったんだ。ご主人とは死別? 離婚? それとも未婚の母? 考えてもわからないことを、私はグルグル考えた。
一人でお子さんを育てているのに、全然大変そうなところを見せない三沢先生。いつもにこにこして、穏やかで、母性に溢れている。お子さんのことを心から愛おしんでいるのが伝わってくる。私は三沢先生をますます尊敬するようになった。
三沢先生にお子さんの歳を訊いたことがある。「6歳」とのことだった。
「じゃあ、1年生なんですね。それとも、来年?」と訊いたけれど、ちょうどその時、「三沢先生、クラスの保護者から電話ですよ」と声がかかり、答えは聞けずじまいだった
明日からいよいよ夏休みだ。
子どもたちを帰してから職員室に向かうと、三沢先生がいつになく真剣な面持ちで「吉野先生、お願いがあるんだけど……」と話しかけてきた。
「実は、青森の母が体調崩したみたいで、一度見に行ってこようと思うの。それでね……」と、三沢先生は一瞬言いよどみ、次の瞬間、思いきったように「うちの子、2、3日預かってほしいのよ」と一気に言った。思いがけない「お願い」だった。
24歳、独身の私に大事なお子さんを託すなんて! 子どもは大好きだけど、日常生活のお世話がちゃんとできるだろうか? 躊躇する私に、三沢先生は恐る恐る訊いた。
「えっと……ひょっとして、吉野先生、ネコちゃんは苦手?」
***
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