おもてなしをしない宿は「ほどよい母親」だった
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記事:AKIYO(ライティング・ゼミ9月コース)
「おもてなしは、いたしません」
その宿は、ホームページで、こううたっていた。北陸地方の、とある百名山のほど近く。中年の男性が一人で営んでいる小さな宿である。
ところで今更ながら、「おもてなし」ってなんだろう。「お・も・て・な・し」と書けば、IOC総会で五輪招致のプレゼンをした、あの人の顔を思い浮かべる人も多いだろう。
辞書によれば、「おもてなし」=「旅行者や客を親切にもてなすこと。歓待・厚遇」。ついでに言うと「親切」とは、「その人の身になって、その人のために何かをすること」だそうだ。
つまり、おもてなしとは、「旅行者や客に対し、その人の身になって、その人のために、なにかをすること」を指すのだろう。
この宿は、その一切を放棄している、というわけだ。
とにもかくにも、今年のゴールデンウィーク、私たち家族3人は百名山に登るため、この宿に2泊した。
宿はアクセスが悪く、主人(あるじ)がライトバンを運転し、最寄り駅まで迎えに来る。バンの中は散らかっていた。後部座席に積まれた荷物をかき分け、何とか3人分のスペースを確保して、ほこりっぽいシートに腰を下ろす。むっつりとした顔の主人は、私たちの心の中を見透かしたかのように、ハンドルを握りながら言った。
「最初におことわりしておきますが、うちはおもてなしをしない宿です。なんのお構いもできませんので、その点、ご承知おきください」
宿に着き、お世辞にも「掃除が行き届いている」とは言えない大部屋に荷物を置く。それから、雑然とした共用スペースのソファに腰掛ける。夕飯まで、さしてすることもないので、息子が好きなNHKのドキュメンタリー番組を観ようと、テレビのスイッチを押す。ところが、線がつながっていないのか、故障しているのか、うんともすんとも言わない。
主人は共用スペースのすぐ横の台所で、黙々と野菜の皮をむいている。「あのー、すみません、テレビが付かないのですが……」。そう言いかけてやめた。何しろここは、おもてなしをしない宿なのだ。
テレビを諦めた息子は、「何しよっかなー」と考えた末、新聞紙を丸めて作ったボールで、パパとキャッチボールを開始した。その間に、私は風呂へ。主人の指示通り、自ら浴槽を洗ってお湯を張り、ぱっぱと浸かって、ぱっぱと出る。次の人のために、お湯を捨てるのを忘れずに。
この日の宿泊者は私たちを含む6組10人。日が暮れたあと、中庭で車座になり、炭火で牡蠣と肉を焼いて食べた。牡蠣も肉も、とてもおいしい。が、おもてなしをしない宿である。自分で素材を取りに行き、自分で勝手に焼く。初対面の他の客に「すみません、しょう油を取ってくださいますか」「ワインをもう一杯いただけますか」と頼むのも、気を遣うので、まあまあ面倒くさい。
おもむろに、主人が口を開いた。「さあ、恒例の自己紹介タイムです。うちの宿では、全員に自己紹介をしてもらうことにしています。それではこちらから順番にどうぞ」
そんなこと、聞いてないし。私たちはともかく、引っ込み思案の小2息子に自己紹介なんてできるだろうかと、ちょっぴり心配になった。
全国を一人で旅して回る白髪の独身女性、百名山制覇を目指しているという会社の同僚二人組……。一人一人の人生が見えて、親しみが湧く。そして、私たちの番がやってきた。
夫の自己紹介に続いて息子が立ち上がり、
「えー、東京から来ました。小学2年生、7歳です。得意なことは野球です。北陸新幹線に乗るのが楽しみで来ました」
みんなから拍手を浴びて、照れたように笑った。
驚いた。大人たちの前で、こんなにもしっかり堂々と自己紹介ができるとは、思ってもみなかった。こんなところで、息子の成長を垣間見ることができるとは。
やがて、宿をぐるりと取り囲む田んぼから、カエルの鳴き声が聞こえ始めたかと思うと、ケロケロ、ケロケロケロ、ケロケロケロケロケロ……と、徐々に広がって、最後は大合唱になった。息子は「何万匹? 1億匹いくかな?」などと面白がっている。
あいにく曇っていて、星はほんの少ししか見えなかったけれど、なかなか素敵な夜だった。すっかり親しくなった宿泊客たちは、夜遅くまで、「山とは」「人生とは」と、語り合っていた。
さて、冒頭の問いに戻ろう。「おもてなし」をしてくれる宿とは、どんな宿なのか。辞書の説明を利用するなら、「旅行者や客に対し、その人の身になって、その人のために、なにかをしてくれる」宿だ。
それは、髪の毛一本落ちていない、掃除の行き届いた宿のこと? 広々とした温泉に浸かれる宿のこと? テレビ視聴に映画、音楽鑑賞と、好きなときに好きなことができる宿のこと? はたまた、上げ膳据え膳で豪勢な料理を振る舞ってくれる宿のことなのか。
どれも、素晴らしい宿だ。「おもてなしをしない宿」は、このうちの一つも満たしてはいなかった。でも……。
テレビは観られないけれど、息子の成長を垣間見ることができた。すてきな音楽は聴けないけれど、カエルの大合唱を聞くことができた。無理やりの自己紹介タイムによって、宿泊客同士が自然と仲良くなれた。
そこで私は考えた。「おもてなしをしない宿」は、「ほどよい母親」なのではないか?
「ほどよい母親」というのは、イギリスの精神分析家、ウィニコットが提唱した考え方だ。母親が先回りして子どもの要求に応え続けていると、子どもは自分で考えることをしなくなり、成長が止まってしまう。時に母親が失敗したり、できなかったりすることで、子どもは自らするべきことに気付き、成長していく。完璧な母親ではなく、ほどよい母親を目指すのがよい――。
私たちは、おもてなしをしてもらえないことで、自ら考えて動き、不足を別のもので補い、互いに協力し合って、快適な旅を作り出していった。「ほどよい母親」のおかげで、旅人として成長したのだ。
おもてなしをしない宿。いつかまた泊まりに行こう。正直なところ、疲れ切った大人にとってはやっぱり、多少はおもてなしをしてくれる宿が、いいけどね。
***
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