メディアグランプリ

ケヤキの葉の降る庭で


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

記事:あき(ライティング・ゼミ9月コース)
 
 

駅からGoogleマップを頼りに歩くこと二十分。ヒールの高いブーツを履いたことを後悔し始めた頃、閑静な住宅街の日本家屋に辿り着いた。表札を確認してインターホンを押す。
 
返事がない。生垣の隙間に鼻を近づけて覗くと、五メートルほど奥に玄関が見えるが、家の中から人が出てくる様子はない。
 
もう一度インターホンを鳴らす。もう一度。インターホンの音が静寂に吸い込まれ、空気が張り詰めたように感じる。風がじっとり汗ばんだ首筋に冷たく触れる。
 
こうなったら警察か。担当の交番が1キロ先にあることは確認済み。歩く覚悟を決めた時、ふと隣の家が目に入る。確か、ご近所付き合いはあると聞いた記憶がある。インターホンを押すと「はあい」とのどかな声。
 
「あの、お隣の宮原さんを訪ねてきたんですが……」
「お待ちください」
 
柔らかな物腰で現れた老婦人に、不審者と思われたらどうしようという緊張が、一気に和らいだ。
 
大学の恩師である宮原先生がこの数日電話にお出にならないこと、八十歳を過ぎたお一人暮らしの先生が心配で訪ねてきたことを伝える。
 
「昨日はお見かけしませんでしたね……。今晩、電気がつくかどうか確認しましょうか?」とのご厚意に飛びつき、自分の名前と電話番号を差し出されたメモ帳に書く。よろしくお願いしますと何度も頭を下げ、お宅を後にした。
 
親切な隣人の存在は心強いが、心配は消えない。急遽半休を取ったのは、お家の中で動けなくなっている先生の姿が頭に浮かんで、居てもたってもいられなかったからだ。
 
先生との付き合いはもう何年になるだろう。卒論指導を受けて以来、年に数回は食事や美術展にご一緒してきた。芸術談義が楽しくて、「帰り道も人生よ」と笑って口紅を引き直す姿が憧れだった。
 
でも最近は、お目にかかるたびに背が小さくなり、雨漏りがするという屋根の修理を勧めても「そのうちね」と笑うばかり。このまま放っておけない。やはり警察に行こうか――そう思い始めた矢先、電話が鳴った。
 
「宮原さん、お庭を掃いておられましたよ」と先程のご婦人、その後ろから「私が出ましょう」と懐かしい声。
 
「あきちゃん? 庭に出ていて気づかなかったわ。なんだか家の電話の調子が悪くて、ちゃんと鳴らないのよ」
「先生、すみません! 突然にお邪魔してしまって。今戻ります!」
 
スマホを握りしめて、来た道を走り出す。足の痛みに構っている余裕はない。視界に二人の老婦人が寄り添って立つ姿が入ると、自然と走るスピードが上がった。先生だ。良かった、生きてた!
 
数分後、暖かそうなどてらに竹箒を持った先生に案内されて、日本家屋を取り囲む庭を歩いていた。門扉のそばには赤い実のマンリョウが、玄関脇にはノムラモミジが静かに揺れている。飛び石に注意深く足を置きながら裏口に回ると、ゆうに四階ほどの高さはあろうかというケヤキが目に飛び込んできた。その二階部分から上に、びっしりと黄色の葉を太陽にきらめかせている。
 
大きいでしょ。区の指定保護樹木なのよ。毎年秋は大変なの。ここのところ、毎日落ち葉掃き。今日はもうゴミ袋五つ分も集めたの。庭仕事は好きなのよ。お隣の庭に葉っぱが入ったら申し訳ないし、明日は雨だって言うから、出来るだけやってしまおうと思って。雨が降ると落ち葉ってなかなか上手に掃けないでしょ……。
 
音楽のように心地よい先生のおしゃべりを聞きながらケヤキを見上げ、八十年以上この屋敷で営まれてきたであろう生活に思いを馳せる。少女時代、庭で遊ぶ彼女を見守りながら、母上や、時には父上がケヤキの落ち葉を掃いていたに違いない。掃き手は世代交代しても、変わることなく繰り返されてきた落ち葉掃きは、大切な年中行事なのだ。単なる掃除などではないーーそのことに気づいた瞬間、無事を確認できた安心感も手伝ってか、青空に映えるケヤキの黄色が涙でぼやけてくる。
 
「私が掃きます」先生の手から箒を出来るだけそっと受け取って、庭石の間の落ち葉を音を立てながらかき出す。
 
残暑の頃は、食欲がないとおっしゃっていた。病院に入院を勧められたのに、庭仕事があるからとお断りになったと聞いた時は、そんなことで良いのかと思ったけれど、恩師に反論できなかった。もっと頻繁にするつもりだったご機嫌伺いの電話も、仕事優先でついつい先延ばしにしていた。先生、ごめんなさい。
 
でもよかった、お元気でケヤキと暮らしていて下さった。落ち葉を集める先生の姿には、彼女が長年暮らしてきた家と自分への誇りが映っているようだった。
 
「あらもう二時半。お昼まだ? 美味しいもの食べに行きましょう」
 
楽しそうな声が、裏木戸の向こうから聞こえる。
 
「はい、お腹空きました」
 
先生の食欲が嬉しい。本当は駅から歩きながらおむすびを食べたばかりだけど、先生お気に入りの洋食屋さんのチキンソテーくらい入るだろう。そして、電話の修理をお願いしてみようかな。

 
 
 
 
***
 
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2024-12-05 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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