「指輪を外そう」と言われた日《とある書店の舞台裏/スタッフ石綿・バックステージツアー》
記事:石綿大夢(天狼院書店スタッフ)
いつも通りの、楽しい夕食が訪れるはずだった。
僕はいつも通り、お仕事を終えて電車で帰宅した。
今日は少し早く帰ることができた。最近うちの奥様は料理に凝っているから、何か美味しいものを作って待ってくれているに違いない。
そんなことを考えながら、いつも通りマンションの階段を上がってドアを開いた。
僕の予想は概ね当たっていた。
「おかえり〜」と上機嫌でキッチンに立つ奥様と、新しいレシピを試した料理がお出迎えしてくれた。仕事で疲れた体と心を癒す、最上の時と言ってもいい。
僕も「ただいま〜」とこたえ、カバンを下ろし、部屋着に着替えた。
さてさて夕飯はどんなメニューかなと、ダイニングテーブルを覗くと、
新作レシピの鶏ハムと自作のお漬物の隣に、何やら見慣れぬものが置いてある。
指輪だった。
食卓には不釣り合いである。
しかもよく見ると、それは僕が結婚の時に買ってあげたいわゆる「結婚指輪」であった。
高価なものではないが、トップにキラリと光るモチーフが輝く、素敵な指輪だ。
デザインに気に入って「これがいい!」と言って、せがんだのは奥様だった。
そんな指輪が、なぜか彼女の薬指から外されて、ダイニングテーブルの上に置いてある。
「これ、指輪どうしたの?」
平静を装って聞いてみると、奥様は夕飯に出す料理をつまみ食いしながら、サラッと答えた。
「あ、そうそう。指輪外そうと思って」
由々しき事態である。
健やかなる時も病める時も、添い遂げることを誓ったあの指輪を、奥様は外したいらしい。
確かに最近、僕の帰りも遅く、休みも合わない日が続いていた。
せっかく合わせた休日も、急な仕事の対応に追われたりして、まともに一緒に過ごせてきたとは言い難い。
しかし、それでも「指輪を外す」というのは一大事である。
僕はかなり合理的で、理屈立てて話す傾向にあるが、うちの奥様はその真逆をいくような人である。
感情的で直感で動くタイプである。
自分の意思は、意地でも曲げないタイプである。
そんな彼女が「指輪を外す」というのだ。彼女が決めたことを変えるのが大変なのは、出会ってから10年、結婚して5年の生活の中で身にしみてわかっている。
僕は思わず、生唾を飲んだ、
これは……つまり「離婚したい」ということだろうか。
暑くもないのに、汗が噴き出てくる。
心臓の鼓動は早く、胸の辺りにざわりとした感触が残る。
そんな僕を知ってか知らずか、奥様はチャキチャキと料理を準備し、夕飯の仕上げにかかっている。
何かを温めていたのか、けたたましくオーブンレンジのアラームが鳴った。
僕は意を決して、キッチンにいる妻に話しかけた。
「これって、つまり……別れたいってこと……?」
なんとかか細く声を振り絞ると、彼女は急に冷静になり、真顔で答えた。
「席に座って待ってなさい」
もうこうなったら、従うほかない。
あぁそうか、僕らの結婚生活は終わってしまうのか。
同じ俳優養成所の同期として出会った僕らは、同じ業界にいる人間同士で、夫婦であり親友であり、仕事仲間としてもこの10年過ごしてきた。
僕にとっては、誰よりも信頼する人間である。周りによく気がつく人で、明るい人だ。
いろんな物事を「石橋を叩いて渡る」タイプの僕とは真逆で、直感で動くタイプの奥様である。
強いていうなら、「石橋を架ける前に川を飛び越える」タイプである。
彼女の奔放さに振り回されてきたけれど、それも今思うと楽しい思い出である。
何気ないことで笑い合い、朝まで語り合ったこともある。
そんな結婚生活ももう終わってしまうのか、と。
時間の感覚がなくなっていたが、ものの数分だったのだろう。
食卓が完成し、目の前には腕によりをかけた料理が立ち並ぶ。
何かのお祝いだったかな、と思ってしまうほどだ。これが夫婦としての「最後の晩餐」だとでも言いたいのだろうか。
「じゃあ、食べよ〜」
とこちらの緊張もよそに、まぁひどく間抜けな声を出したと思ったら、もうお刺身に手をつけている。いやいや、ちょっと待て。
「え……この指輪の件は……どういうことなの?」
僕は死刑宣告を受け入れるつもりで、意を決して聞いた。
「いや、だから、外したいのよ。痛いから」
痛いから?
事情を聞くと、こういうことらしい。
僕ら夫婦はお互い芝居の業界になんかいるもんだから、とにかく結婚当初はお金がなかった。最初に一緒に住んでいたアパートは家賃5万円台だったし、湯船もなかった。
そんな中結婚したもんだから、指輪もとても安いものしか買えなかった。
せめて、お互いが気に入ったものを買おうと、デザイン重視で買ったのが目の前に置いてある指輪である。
だから、結婚指輪ではあるが、実はお互いにデザインが違うものを薬指にはめていた。
僕はシンプルなゴールドの指輪だが、奥様が気に入ったのは、大きめのモチーフのついた指輪だった。もちろんダイヤでもサファイヤでもない。多分、ガラスか何かである。
しかも、直感で物事を決める人である。
デザイン優先で選んだ結果、サイズが合わず、モチーフのガラスが手のひら側に回ってしまうらしい。それで顔なんか洗ったもんなら、突起物を顔面に擦り付けるようなものである。
そりゃあ、痛いだろう。
しかし……それを結婚して5年以上経った今、言うか?笑
僕は拍子抜けして、すかさず目の前の新作鶏ハムを頬張った。妻は「美味しいか? 美味しいか?」と聞いてくる。悔しいが会心の出来である。最高に美味しいじゃないか。
思えば5年前、僕は別に結婚したいと思っていなかった。
いや、正確に言うと、「別にこのままの生活が続くなら、わざわざ結婚しなくてもいいんじゃないか」と思っていた。
だが、そうではなかった。結婚生活は僕の予想の遥か上をいっていた。
親戚の結婚、冠婚葬祭。年末年始の挨拶やお歳暮、父の日や母の日。
まぁ率直に言って、色々と面倒なことは増えた。
しかしそれは、「嫌なこと」ではない。
面倒だからこそ、笑って泣いて、過ごしてきた時間がある。
まだまだ新米夫婦で子どももいないが、全く飽きない毎日を過ごせている。
それはひとえに、僕にとってのベストパートナーを見つけられたと言うことなのだろう。
どうやら僕らの結婚生活は、まだ続いていくらしい。
結婚指輪を外すことになっても、結婚生活は続く。出来れば結婚10年目には、ちゃんとした良い指輪を買いたいと思っている。
さて、次はどんな“爆弾”が待っているだろうか。僕はいつも、少しだけ楽しみにしている。
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