メディアグランプリ

苦手は克服しない


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

記事:川戸恵子(ライティング・ゼミ7月コース)

 

そろそろ連絡しなければ。

そう思った私は,のろのろとスマホに手をのばす。

あれから,ひと月。早いものだ。思い切らなくては。そして,バッサリと,この重いものを切り捨てるのだ。そうすれば,このモヤモヤした状態から解き放たれるだろう。

しかし,スマホをつかんだ手が,そのまま止まる。

かけたくないなあ。

私は,スマホを机に戻した。

何をこんなにも逡巡しているのか。たかが予約を入れるというだけなのに。

歯医者の予約でもなければ予防接種の予約でもない。

美容院の予約を入れるというだけだ。

しかし,私はこれが苦手なのだ。いや,苦手だったのだ。

世の中には様々な「予約」がある。

宿泊の予約,医療機関の受診日時,交通機関のチケット,遊園地の入場券,エステサロンや鍼灸院の施術日時,飲食店の座席,新刊本の予約,などなど。

現に,ある日の私の手帳には,「歯医者に電話」「ランチ・〇〇店に電話」「(仕事用)会場・ネット」と,予約すべきことが並んでいる。

それらを私は,淡々と片づけていく。すべて終了すると,達成感すら感じる。

だから,私がけっして無精というわけではないことは,わかってもらえると思う。

それなのに美容院だけ,予約することがおっくうに感じられてしまうのはなぜなのだろう。

行きつけだった美容院では,オーナー兼店長が「先生」と呼ばれ,その下でスタッフが常時何人か働いていた。25年以上の付き合いになっていたと思う。

予約を入れるために電話をすると,スタッフから礼儀正しい口調で聞かれる。ご希望の日時は。今回はどうされますか。ご指名は。

そこで私は希望の日時と「先生」にカットしてほしい旨を,やや緊張しながら伝える。

希望日時にしてもらえるかどうか、けっこう「賭け」なのだ。

この時「かしこまりました。そのお時間で承ります」なら,さっきまでの緊張は一気に

ほぐれる。しかし,「申し訳ありません。あいにくと,その日は埋まっております……」という返事だと,緊張は失望へと変わる。あれこれスケジュールの算段をして「その日」を決めたのに,なんたることか。

それでも気を取り直し,では別の日にと,急いで手帳を繰り,なんとか行けそうな日

時を告げる。そこに入れておいた予定をどこに移すかを急いで考えながら。

そして,「そのお日にちでしたら大丈夫です」という返事を聞いて,ようやく安堵するの

であった。

電話を切ると,妙な疲労感が身体全体を襲ってくる。

こういうことの繰り返しが,私を美容院の予約を苦手にさせていたのかもしれない。と,今になって思う。

しかし,その美容院「予約苦」生活が一変する。

「予約なし」で入れる美容院を見つけたからである。

行ってみようか,と数日考えた。いやいや,今までの美容院の「先生」に悪い気がする。そんな義理のようなものも感じていた。

しかし,コロナ禍で外出を控えていた期間に伸びた髪を見ると,思い切って行ってみようという気になった。今までの「当たり前」が見直されるようになった社会の流れが,その時の私を後押ししたのかもしれない。

店の前に着いて,一呼吸。扉を開けると,「いらっしゃいませー」と挨拶してきたスタッフからすぐに,持ち物をロッカーに入れるよう言われた。これまでは,「お預かりします」と,バッグを預かってもらっていたので,そのカジュアルさに少し面食らう。

ロッカーにバッグをしまって鍵を抜き,スタッフの方を向くと,今日はどうするかと聞かれた。

カットでと頼むと,シャンプーはどうするかと,また聞いてくる。今まではカットを頼めば,シャンプーも当然のようにしてもらっていたが,カットだけと言ってもよさそうな雰囲気だ。これまた思い切って「シャンプーなしで」と答えると,「どうぞ」と,すぐにいくつか並ぶイスに案内してくれた。

ケープをかけられ,長さはどうするかとか,前髪はどの辺りでとか,いくつか質問される。

「重い感じになってきたので,少し短くして,風通しをよくしてください」

と伝えると,美容師さんは,

「では1センチくらいカットして,中をすいて軽い感じにしますねー」

と応じてくれ,すぐに霧吹きでシュッと一吹きの後,カットを始めた。

お互い,無言である。それでいて,特に気づまりも感じない。気楽でさえある。

髪は手際よく整えられ,最後に簡単にブローして終わった。え? もう終了? というくらいの短時間だ。

手鏡で後ろ側の様子を見せられ,「どうですか」と聞かれた。

思ったより短い気がするが,許容範囲だ。

「スッキリしていて,いい感じです」

とうなずくと,美容師さんはケープを外し,椅子を回転させてくれた。

私はロッカーからバッグを取り出し,支払いを済ませ,店を出た。

入店から15分もかかっていなかった。

後ろでドアの閉まる気配を感じながら,私は不思議な感覚になっていた。

なんだ,この軽やかさは。この清々しさは。

とても気軽。とても便利。

美容院に行くって,予約しないって,こんな簡単なことだったのか?

私は,スキップしたいくらいだった。そして実際,2歩だけ小さくスキップした。

それ以降,このお店を利用するようになった。

切りたくなった時が,美容院に行く時。なんだか伸びたなあと思ったら,「そうだ,美容院行こう」と,出かける。

こういう簡単さが,今の私には合っている。

「先生」に対するうしろめたさが多少はあったが,それよりも,「美容院の予約」というストレスから解放されることを優先させることにした。自分の気持ちファーストだ。

このことをきっかけに,私は今まで苦手だなと感じていたことや,縛られていると感じていたことを,思い切って止めていくことにした。たとえば,苦手な人との付き合い。なんとなく続けているお義理の集まり。〇〇会や〇〇展などのお誘い。

そうすると,なんだか心が軽い。気持ちが晴れやかだ。予約のいらない美容院から初めて出て来た時のように。

ふりかえってみれば,苦手なことは克服しなければならない,克服できないのは気持ちが弱いからだと教えられてきた世代。若い頃なら「よしっ」と発奮して乗り越えたこともあった。自分を追い込むことで成長できると信じていた時もあった。

しかし,もう,それは今の私には必要ない。苦手は克服しなくていい。苦手は苦手のままでいい。

還暦を過ぎ,エネルギーがないと感じることも多くなった。気力や体力,時間を,気の乗らないことに回すより,もっと別の,自分にとって本当に必要なこと,大切なこと,楽しいと感じることに使いたい。

無理ならしなくていいんだよ。「やらない」と決めることを増やしていっていいんだよ。そう自分に言い聞かせる今日この頃である。

 

***

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2025-09-11 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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