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本屋で過ごす時間が贅沢になったいま、図書室で過ごした数時間を思い出す理由


 

 

 

 

*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

記事:雨宮さよ(2026年1月開講・渋谷/通信・4ヶ月コース)

 

本屋に行けと、人はいう。そういう時間の使い方が、自然と良いもののように感じられている。

 

私もかつては仕事帰り、帰路の途中で何店舗かの本屋をはしごしていたこともあった。それがいつの間にか、本屋で時間をつぶすことすら、贅沢だと感じるようになっている。

 

常に最適な、何かを得なければいけないような気になって、ただ棚のあいだを歩く時間を、どこか遠ざけている。スマートフォンを開けば、情報はいくらでも流れてくる。仕事も連絡も、すぐに返せる。その速さに慣れてしまうと、本屋の徘徊は少しだけ落ち着かなくなる。

 

思い返してみれば、子どもの頃の私は、図書室に通うのが好きな子だった。放課後の図書室は、校舎のざわつきから切り離されたような、どこか秘密めいた静けさがあった。

 

紙や埃の匂いが鼻をつく。誰かがページをめくる音や、椅子を引く音だけが遠くでかすかに聞こえていた。ときどき、外のグラウンドから運動部の掛け声が風に乗って届く。その声も、ここでは少し遠くの出来事のように感じられた。

 

棚に並んだ本の背表紙は少し色あせていて、指でなぞるとざらりとした感触が残る。背の低い私には、上の段の本に手を伸ばすときに、少しだけ背伸びが必要だった。その動作すら、なぜか楽しかった。特に読みたいものがあるわけではなかった。ただ、そこにいることが落ち着いた。

 

鍵っ子だったから、家に帰っても誰もいない。ランドセルを置いたあと、テレビをつける日もあれば、つけない日もあった。静かな部屋にひとりでいる時間は、きらいではなかったけれど、どこかで時間をやり過ごしている感覚もあった。

 

図書室の静けさは、それとは少し違っていた。同じ静けさなのに、どこか大人っぽかったのだ。そこでは、ただ時間が過ぎていくのではなく、自分がその時間の流れの中にいるという感覚があった。

 

小学生の私は、ある日、フランダースの犬を読んだ。数回に分けて読んでいたのだが、ページをめくる手が途中から少しずつ遅くなっていった。終わりが近づいていることがわかっていて、それでも止めることができなかった。

 

教会の場面で、指が止まった。ネロとパトラッシュがようやく辿り着いた場所で、静かに横たわっている。誰にも見つけられないまま朝を迎える、その光景を想像した瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。

 

読み進めるのが怖いのに、目をそらすこともできない。ページの上の文字を追いながら、物語の外に出ることを自分で許さなかった。終わりを受け入れるしかないと、どこかでわかっていたのかもしれない。

 

気づいたときには涙が落ちていた。音もなく、ただ頬を伝っていく。止めようとも思わなかった。そのまましばらく、ページを閉じることもできずに座っていた。図書室は変わらず静かで、その静けさの中で、私はひとり、さめざめと泣いていた。

 

やがて本を閉じて、元の場所に戻し、家に帰った。玄関を開けると、めずらしく母が先に帰っていた。どうしたの、と聞かれて、うまく言葉が出てこなかった。「フランダースの犬、読んだ」そう言葉にするのが精一杯だった。ただ泣いていたことだけは、伝わっていたのだと思う。

 

そう、と母は言った。それだけだった。理由も聞かれず、慰められることもなかった。けれどその一言で、胸の奥の動揺が、すっと落ち着いた気がした。何も説明しなくてもいいのだと思えたことが、少しだけうれしかった。

 

当時の私は、ただ物語の中に入り込んで、ただ泣いていただけだった。あの時間に意味があるかどうかなんて、考えたこともなかった。

 

けれど今なら、わかる気がする。あの時間は、何かを得るためのものではなかった。ただ、感じるための時間だった。そのときに動いたものは、誰にも見えないまま、いまもどこかに残っている。

 

そういう時間を、ずいぶん遠ざけていた気がする。

 

仕事の帰り道、駅ビルの中にある本屋の前で、足が止まることがある。ガラス越しに見える棚は、明るい照明に照らされていて、整然と並んだ背表紙が静かにこちらを向いている。新刊の平台には、いま話題の本がきれいに積まれていて、手に取ればすぐにでも何かを得られそうな気配がある。

 

それでも私は、少し迷ってから通り過ぎる。今日はやめておこう、また今度にしよう。そうやって理由をつけて、足を動かす。急いでいるわけでもないのに、立ち止まることをどこかで先送りにしている。

 

けれど本当は、あの中に入って、何も決めずに棚のあいだを歩きたい。ただ目に入った本を手に取って、数ページだけ読んで、また戻す。それだけの時間を、もう一度やってみたいと思っている自分がいる。

 

本屋でお気に入りの作家の新作を眺めることや、なにか夢中になれる本はないかと棚のあいだを歩くことも、気になる本を手に取って途中まで読んで、また戻すことも。早川ミステリの棚の前に立ち、品ぞろえを確認して、それだけで満足していた時もあった。

 

生産性の低い時間だと言われれば、たしかにそうかもしれない。それでも、あの時間がまったくの無駄だったとは思えない。むしろ、何も残らないように見えて、静かに何かが積み重なっていたのだと思う。

 

いまの私は、その時間に理由を求めるようになっている。なぜそれをするのか、どんな意味があるのか、どれだけの価値があるのか。そうやって測ろうとするたびに、あの静かな時間は、少しずつ遠ざかっていく。

 

けれど、そろそろそんな時間の使い方を、もう一度選んでもいいのかもしれない。原点に戻る、というほど大げさなことではない。それでも、デジタルに囲まれている今の私にとっては、ささいなこととも言い切れない。

 

本屋に行けと、人はいう。その言葉の意味を、いまになって少しだけ違うかたちで受け取っている。今週末は本屋に行こうと思う。本を買うためでも、何かを得るためでもなく、ただそこにいる時間のために。≪終わり≫

 

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