【連載第30回】《“治す側”から”治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》「ベッドから出られなかった男性が、靴下を履いた日」
記事:内山遼太(READING LIFE公認ライター)
※一部フィクションを含みます。
うつ状態にある人に「動いてみましょう」と言うことが、どれほど残酷に聞こえるか——作業療法士になりたての頃、私はそれをわかっていなかった。Bさん(仮名・60代)と出会ったのは、私がようやくそのことを理解し始めた頃だった。「どうせ無理だよ」と言い続けた男性が、ある朝、靴下をゆっくりと引き上げた。その小さな動作が、閉じていた扉をどうひらいたのか。
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病院の廊下には、時間が違う流れ方をしているように思う。
外の世界では人が急ぎ足で歩き、スマートフォンを見ながら何かを決め、次の予定へと向かっていく。でも廊下のこちら側では、時間がひどくゆっくりと、時には止まったように流れている。
Bさんの部屋は、いつもカーテンが閉まっていた。
Bさんは脳梗塞の後遺症で入院していた。麻痺の程度は軽く、医学的な回復経過は悪くなかった。それでも彼は、ほとんどベッドから出なかった。
リハビリの時間になると、「今日はいいです」と言った。食事は病室で一人で食べた。面会に来た奥さんとも、ほとんど話さなかった。
担当になった私が初めて声をかけたとき、Bさんはこう言った。
「どうせ無理だよ」
声に感情はなかった。怒っているわけでも、悲しんでいるわけでもなかった。ただ、乾いた確信のように——そこにあった。
私はその言葉を、うまく受け取れなかった。
何か返さなければと思った。「そんなことないですよ」と言いかけて、やめた。「一緒に頑張りましょう」も、違う気がした。どんな言葉を置いても、Bさんの「どうせ無理だよ」の上を滑っていく気がした。
その日は、ほとんど何もできずに部屋を出た。
脳梗塞の後にうつ状態になる人は、少なくない。
身体の麻痺や言語障害といった目に見える変化だけでなく、脳そのものへのダメージが、気分や意欲に深く影響することがある。「やる気がない」のではなく、やる気を生み出す仕組みが、傷ついているのだ。
Bさんの場合もそうだった。
麻痺した手足を動かすこと以上に、「何かをしようとする気持ち」を取り戻すことが、回復の本当の課題だった。そしてそれは、「もっと頑張れ」という言葉では、絶対に動かない。
では、何が動かすのか。
私はしばらく、Bさんのことを観察することにした。リハビリに誘うのをいったんやめて、ただ毎日部屋に顔を出して、短い会話をするだけにした。
天気の話。病院食の話。廊下の向こうから聞こえる音の話。
Bさんは最初、ほとんど答えなかった。でも何日か経ったある朝、私が「今日の朝ご飯、何でしたか」と聞いたとき、Bさんが少し間を置いて「卵だった」と言った。
たったそれだけのことだった。でも私には、何かが少し動いた音がした。
ある日の朝、私はBさんの部屋に入って、こう言った。
「今日、靴下だけ履いてみませんか」
Bさんが顔を上げた。「靴下?」と、少し不思議そうに繰り返した。
「そうです。それだけでいいです。靴下、一足」
着替えでも、歩行訓練でもなかった。リハビリ室へ行くことでもなかった。ただ、靴下を履く。それだけを提案した。
Bさんはしばらく黙っていた。
断られるかもしれないと思った。でも彼は、ゆっくりとベッドの端に腰を下ろした。
靴下を手に取る。片足を持ち上げる。少し、顔が歪んだ。麻痺の影響で、動かしにくい部分があった。それでも——靴下がつま先にかかり、かかとを包み、ゆっくりと足首まで上がった。
Bさんは、少しの間、自分の足元を見ていた。
それから、ぼそりと言った。
その日から、何かが変わった。
翌日、Bさんは自分から「今日も靴下やろうか」と言った。その次の日には「ズボンもやってみようか」と言った。一週間後には、リハビリ室へ自分で歩いてきた。
劇的な変化ではなかった。でも、確かな変化だった。
私が気づいたのは、扉は内側からしか開かない、ということだ。
どれだけ外からノックしても、どれだけ「開けてください」とお願いしても、動けない人を外から動かすことはできない。でも、内側の人が自分の手で扉を押したとき——その力は、想像以上に遠くまで届く。
靴下を履くことは、Bさんにとっての「内側からのノック」だった。
「自分でできた」という体験が、Bさんの内側で何かを動かした。それは私が動かしたのではなく、Bさん自身が動かしたものだった。私はただ、そのきっかけになれる場所を探していただけだった。
後になってBさんが言った言葉が、今も頭の中にある。
「靴下なんて、こんなもんかって思ってたよ。でも、あのとき履けたとき——なんか、久しぶりに自分がいる感じがした」
自分がいる感じ。
その言葉を聞いたとき、私は返す言葉が見つからなかった。ただ、うん、とうなずいた。
この仕事をしていると、「もっと大きなことをしなければ」と焦ることがある。
立てるようにしなければ。歩けるようにしなければ。社会に戻れるようにしなければ。
それは間違いではない。でも、焦るあまりに「小さなこと」を飛び越えようとすると、かえって遠回りになる。
Bさんが教えてくれたのは、小さすぎる達成体験など存在しない、ということだ。
靴下を履けた。それは「たったそれだけ」ではなかった。Bさんにとっては、何週間もの停滞の中に差し込んだ、確かな光だった。
回復は、大きなできごとから始まらない。ほとんどの場合、それはごく小さな動作の中に、ひっそりと宿っている。
だから私は今日も、「再起動スイッチ」を探す。
どこにあるかは、その人にしかわからない。でも必ず、ある。
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❏ライタープロフィール
内山遼太(READING LIFE公認ライター)
千葉県香取市出身。現在は東京都八王子市在住。
作業療法士。終末期ケア病院・デイサービス・訪問リハビリで「その人らしい生き方」に寄り添う支援を続けている。
終末期上級ケア専門士・認知症ケア専門士。新人療法士向けのセミナー講師としても活動中。
現場で出会う「もう一度◯◯したい」という声を言葉にするライター。
2025年8月より『週刊READING LIFE』にて《“治す側”から”治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》連載開始。
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